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ナチズムとイタリア・ファシズムの比較(*_*)誰か助けて
こんばんは、私は関西の大学三年のものです。 明日期限で、「ナチズムとイタリア・ファシズムを思想、運動、体制の点から比較せよ。」という課題が与えられているのですが、自分では以下のもの以上のことが出てこないので補填するところ等あったらアドバイスお願いします。 同じ点 ・どちらも全体主義である。 ・合理的な思想形態を持たず、感情に訴える国粋的思想である ・どちらも一党独裁 違う点 ・目的の違い=イタリアファシズムは、(1)共産主義や脆弱な政府を打倒するため(2)イタリアの近代化のため、にできた。ナチズムは、恐慌からの脱出を植民地再分割、に求めた。ヒトラーの最終目的は、ソヴィエトを支配下におくこと(?) ・お手本にした=イタリアファシズム・ムッソリーニは、ナチズム・ヒトラーがお手本にした。 ・ファシズムの進め方の違い=イタリアファシズムは、エチオピア・アルバニアに進出して植民地政策をとり富国強兵政策を推し進める。ナチズムは、労働者のニーズに応えた失業者対策と、ゲルマン民族の優秀性を語り民族を浄化(ユダヤ人大量虐殺、ソヴィエトを支配下におこうとしのも、スラヴ人より自分の民族が優れていると示したかった為とか)しようとしたりして、ポーランドへ侵攻する。 私、勉強したり情報収集したりして分かった点は以上です。気になる所や、間違っているぞ、というところ、ここが抜けているなどあればお願いします。お願いします!
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全体的なニュアンスでいうと、典型的な全体主義はドイツ・ナチズムで、イタリア・ファシズムの方が権威主義に近いような感じがします。もともと権威主義の概念は、スペインのフランコ体制が、全体主義の概念では説明しづらいところから出てきたものですので、イタリア・ファシズムが全体主義に入ることは明らかですが、イタリアの方が、思想のファナティックさの度合いや国民動員の面などで緩やかなところが多いと思います。具体的な事例を知っているわけではないのですが。 ヒトラーに比べると、ムッソリーニはカリスマ性が薄く(それでも充分にカリスマ性はあったのですが)、思想体系もナチズムが論理矛盾を多く抱えながらも一定の体系性を持っていたのに対し、ファシズムはまず直接行動が先行し、その運動の性格に合わせて思想体系を整備していった、と言えます。 これは、ファシズム体制期以前の時期に、イタリアの方が経済的にも政治的にも国民を組織するという面で遅れをとっており、それをファシズム体制に統合していくのには困難がともなった、ということが要因ともいえます。国民国家形成はほぼ同じ時期ですが、ドイツが産業革命や男子普通選挙制も同時期に実現したのに対し、イタリアは産業革命の達成も充分ではなく、男子普通選挙制の実現も第1次大戦直前にようやく実現した、という違いは、国民の組織化を進めて国家に動員していく、ということの難易度の違いをもたらした、ということもあります。 両国の国民性の違いも影響したとは言えるでしょう。「まじめで勤勉」とされるドイツ人は、何か悲壮な雰囲気をもつヒトラーを支持し、「おおらかで享楽的」とされるイタリア人は、男らしさを強調しながらもどこか陽気な雰囲気をもつムッソリーニを支持した、ということで、そういう国民性の違いは両国の全体主義体制の違いにも反映していたともいえるでしょう。 質問者さんの挙げておられる相違点については、イタリアの目的の(1)は、ほとんどドイツにもあてはまります。ドイツでも共産主義の勢力伸張は著しいものがありましたし、イタリアでは「打倒」なのが、ドイツでは「強化」のニュアンスに近くなる、ということでしょうか。また、ドイツ・ナチズムの目的は、体内的には、統制経済と軍拡による経済の活性化と失業の減少(「軍事ケインズ主義」という評価もある)、対外的にはベルサイユ体制の打破をともなう領土拡張(ドイツの「生存圏」の確保)にあったというべきでしょう。民族の優秀性の強調は、いずれも領土拡張の正当性の主張とセットになっていた、ということでもあります。 ナチズム体制が急速に整備されていくのを見たイタリアは、その後の体制整備ではドイツをお手本にするようになります。つまり、1930年代後半にはムッソリーニがヒトラーをお手本にしたわけです。 一般には、「ファシズムの進め方」というときには、国民の支持を獲得するやり方とか、生還掌握後は国内の国民動員体制の強化の手法とかをさすのが普通です。対外侵略は、ファシズム国でなくても、英仏米などの民主主義国もやりますから。 対外侵略の進め方の違いは軍事力の違いを反映しています。イタリアの軍事力はかなり脆弱でした。特に第2次大戦中のイタリアの戦果は微々たるものでした。イタリアは、他の列強を敵に回すだけの軍事力がなかった、ということです。 全体に気になるのは、イデオロギーで政策を説明しようとする傾向です。イデオロギーが政策形成の動機づけとなることは否定しませんが、政策を正当化するためにイデオロギーが後づけされることもよくあります。特に、ファシズムの場合はもともと思想体系がいい加減なのですから、その後づけは容易だったのです。また、表面的な言動では大げさなことを言っていても、それが実現可能なのかどうかも見極める能力がなければ、政権は短命に終わります。現在からは、ヒトラーの「わが闘争」の実践が第2次世界大戦であるように見えても、ヒトラーは政権掌握後すぐに第2次大戦を始めたわけではないのです。その前に政治・経済・社会体制を固めることが必要で、それでようやく戦争に勝てるという判断をもったのだとは言えるでしょう。しかも、最初のポーランド侵攻の段階では英仏との全面戦争は予測していなくて、その後の戦局の展開が好調だったため、対英仏戦の勝利を確信するようになったではないでしょうか。 僕の知識は「耳学問」の要素が強く、参照文献がすぐには思いつきません。ファシズム論の定番は山口定『ファシズム』(有斐閣)とされますが、恥ずかしながら僕は読んでいませんので、独伊比較論が含まれていたかどうかは知りませんし、刊行が1979年と古いので、最近の研究動向からみてどうなのかは僕にはちょっと判断しかねます。 なお、全体主義概念について、当初の一枚岩的なイメージに異議が出され、概念の修正がはかられていることを付言しておきます。
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- montebianca
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答えになりませんが・・・。 イタリア国民は後半、ムッソリーニによるファシズムは間違っていると考え、パルチザンが立ち上がり、ドイツ軍は勿論、同胞相撃ち、連合国側に立って行動しています。パルチザンはムッソリーニをミラノの北方の村に幽閉し、射殺後、ミラノのロレト通りに死体を逆さ吊りにまでしています。跡地には反戦の碑が建っています。各地にもパルチザンの一員としてなくなった方の慰霊碑がいっぱい建っています。ファシズムの終焉の仕方もだいぶ独日とは違うようですね。
お礼
ご返信ありがとうございます。 そのような結末があったとは知りませんでした・・。 独裁者の最期は悲しいものですね。
お礼
ものすごく内容のご返答に返せるものがお礼の言葉しか見当たらず申し訳なく思います。 耳学問とは思えない、とても論理的で整理されて文章に驚きです。 ナチズムとファシズムは、全然比較内容が実感として捉えられなかったのですが、お陰様ですごく分かってきたような気がします。 また、私の間違いも指摘して頂きましてありがとうございます。ファシズムの進め方は自分で書いておいて何ですが、そう言われてみればおかしいな、と気付かされました。私は、まだまだ論理的な思考が身についていないようです。 最後のドイツの内心はどんな感じであったんでしょうか?kennyanさんのように、色々な可能性に思考を働かせれば近代の現代史も面白いものだな、と実感させられます。 もっともっと、勉強して精進していきたいと思います。今回は本当にありがとうございました!