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キリスト教 差別

無宗教でキリスト教のこともあまり深く知らないのですが、キリスト教の基本ていうのは人類の愛、隣人愛と聞きました。(勉強不足ですみません) これは皆平等である、ということと思うのですが キリスト教はどこか差別的なものがある気ものもするのですが、それは自分の偏見なのでしょうか。 (例えば、キリスト教は同性愛とか女性差別的な部分があると聞きました) よければ皆さんの意見お聞かせください。

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  • pastorius
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回答No.15

キリスト教に限らず、人間は差別しますよ。個々の人間も差別しますし、社会も差別します。仏教だってヒンズー教だって八百万の神だって、差別します。 差別の根源は美醜や好悪といった価値感です。プラス方向の価値感、例えば美しいと思ったり、可愛いと思ったり、立派だと考えたり、これは逆方向の価値観を必ず生み出します。 マイナス側の価値評価のうち、ある社会にとって合理性を欠いていると考えられる価値評価が、「差別」と言われるようになります。社会の価値観に沿っているものは単に「区別」であるに過ぎません。「差別」と「区別」の違いは、社会の価値観から相対的に判定されるものにすぎません。 「部落差別」というのは、江戸自体には社会制度の根幹を為す当たり前の制度だったので、「差別」などと言われなかった。士農工商という身分制度がありましたが、商人は差別されているなどと言わなかった。 穢多非人という汚れの観念は、高貴な血筋という価値観の対立観念として必要だったんです。高貴な血筋という社会幻想が希薄になることによって、穢多非人という汚れの価値観も希薄になることができます。 たとえばこのように、以前からあった価値観が希薄になってゆくことが、社会にとって合理性を欠いてゆくというプロセスです。 今の日本はお金絶対主義ですが、いくらお金があっても被差別者は物を売ってもらえない、店に入れてもらえない、なんて社会がいくらでもありました。今でもあると思います。お金持ちなのに差別されるという社会もある。 さて、ご質問についてですが、そもそも「人類の愛、隣人愛」というのは、差別をするかしないかという問題と、関係ありません。「皆平等」という意味では無いです。ですから、「偏見」ではなく事実をその通り感知なさっているだけです。 南北戦争時代のアメリカでは、黒人奴隷を売買したり鞭で打ったりする人が、毎週末教会で「汝、隣人を愛せよ」という説教を聞いてたわけです。きっと牧師さんの家にも黒人奴隷はいたことでしょう。 だいたい、「人類の愛、隣人愛」と言った時点で、人類以外の生物種を差別してます。キリスト教では牛や豚は人が食べるように神が遣わした生き物だと解釈されています。 このように書くと「じゃあ差別するのは仕方無いのだな」と言う人がいます。 ある意味ではそうです。差別が存在するのは仕方無い。社会の価値観は常に変遷しますから、それに伴って今まで差別でなかったものが次々と差別になってゆく。また価値観は社会の変遷に伴って変遷すべきものです。 これは克服することができない問題ですから、私達は、自らの価値観が常に変わるかもしれないということを認識していなければならないのでしょう。変化することを受け入れなければならない。そして不合理な区別、つまり差別であると考えられるものについては、無くすように努めないといけません。差別があるのが仕方無くても、差別をしていいということにはなりません。 宗教を信じている人はこういったことを考えなくていいから楽です。楽をしている人たちは、理由を考えずに自信を持って物事を差別します。そういった状態になっているときの人を、ぼくは狂信者と呼びます。社会の実態に照らして意見の対立を止揚することができない。 宗教の教義なんかよりも、現実に生きている社会の実情の方が、絶対に大事だとぼくは思います。

その他の回答 (17)

  • bono05
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回答No.7

追加です。キリスト教は所詮人間がつくったもの。神が聖書を書いてるところを見た人はいません。ほんとうの平等とは、むしろ太陽だと思います。太陽はえらい人にもそうでない人にも同じだけ光をふりそそぎます。まず太陽を信じることが大事なんてけちくさいことはいいません。もちろん金持ちの人にも貧乏な人にもおなじです。皆に平等に24時間が与えられています。お前はしんじないから1時間しか顔だしてやらないなんていいません。真の平等とはそんなものだと思います。果たしてキリスト教にそんな、完全無欠な平等があるかは疑問ですね。信じるものもしんじないものも平等ならべつに教会はなくてもいいと思います。

  • 0wooo
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回答No.6

殆どの宗教がそうであるように、創始者の思想が口伝と時間にによって変化するとともに、弟子の書籍なども創始者の表現を自分なりに表現して変えてしまっています。この理解の違いから同じ宗教でも宗派の違いが拡大し、それが宗派間の争いまで生んでしまっています。政治的な立場の違いなども変化の原因です。 私はキリストは、アガペー(隣人愛・慈愛)を通じて、人間の平等を説いたと考えています。 その後で、キリストの思惑とは離れて、差別的、独善的に聞こえるようになったのは、上述した変化のせいでしょう。

  • bono05
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回答No.5

ある部分にはそういうところもあるかもしえません。うちの会社の社長は、熱心なキリスト教徒で毎週協会に行ってますが、気に入る社員とそうでない社員に対する対応は見てて違うのがわかります。それに自分の偏見で過去にミスを連発した社員を残して、ミスもしていない社員をやめさせました。 それにその社長は自分の子供には特別に休日を与えています。キリスト教に差別がないとしても、所詮は人間、その行動は、その人の資質なんだと思います。キリスト教に右のほほをぶたれたら、左のほほをだせって教えがあったように思いますが、ほほをぶちかえす人って多いですよね。そんなものは宗教上の理想にすぎないと思います。キリスト教徒の不平等な行動をたくさん見てきました。

  • YNi2B2C
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回答No.4

以前私は、キリスト教を布教する人に ・キリスト教の教義に従って、キリスト教徒が行った事 ・キリスト教徒ではない人が、キリスト教以外の何らかの信念に基づいて行った事 が共に結果として同じ善行だった場合、キリスト教徒であるなしに関わらず神の恩恵を受けられるのか、と問うた事があります。その回答は、 「まず神を信じる事が大事なのであって、行いの善悪は二の次である。もちろん悪を行えば罰せられるが」 と言われました。 あなたの問いに対する私の意見は、 「会員以外に特典の当たらない『平等』など、平等ではない」 です。参考になれば、幸いです。

回答No.3

もともと「ユダヤ人は選ばれた民で、いつか審判の日に神の国にいける」という選民思想の上に立ったユダヤ教がベースですので、基本的に差別的と言えます。

回答No.2

唯一神教ですから、他の宗教を否定します。更に怖いのは神を信じないものは罰せられます。そんな気持ちの小さい神様は私には要りません。そして人間は生きていることが罪だとか、アホじゃない。 神様はそんなものを作るはずが無いじゃないですか。  来るもの拒まず、去るもの追わず、助けて欲しければ個人が努力をすれば報われるそんな宗教(多分日本の仏教?)がいいですよ。

回答No.1

差別というかどうか知りませんが、教義に反する事柄には弾圧といわれることもします。

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