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1371年の興福寺衆徒による強訴とは?
- 1371年、興福寺の衆徒が実玄・教信の罷免を要求した。
- 興福寺の衆徒が新帝の即位式を図り、後光厳上皇が憤慨した。
- 後円融天皇の即位式を直ちに行う必要があったため、要求が受け入れられた。
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2) 構造としては、下克上で、加賀国一揆に近い。 衆徒って何者かと言うと、国人層です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E5%BE%92 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E6%B0%8F こういった人々。 門跡ってのは、他国における守護みたいなもの。 守護の富樫を実力で放逐したのが加賀国一揆。 守護もどきの門跡を任命した朝廷に罷免させろというのが1371年の事件。 100年の間に実力行使がエスカレートしたと言う感じです。 有り体に言えば、国人層(=衆徒)が、「俺たちの取り分を増やせ」というもの。 3) 後光厳上皇が新帝の即位式を図る ↓ これは、誤記でしょう その前にある「新帝の即位式妨害」というのが正しい 妨害したら憤慨するでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 大門跡に子弟を突っ込んで収入源にする、あるいは突っ込ませることでキックバックをもらうというのが天皇家や摂関家の収入源ですから。 天下りした理事長に対して、その財団法人の社員が「理事長やめろ」と運動したら、官僚は激怒します、それといっしょ。 5) 時代は南北朝時代。 南朝と北朝どっちが正統なの?という疑問が底辺にあります。北朝側としては、即位もできないでブラブラしていては困るわけです。 ちなみに、一揆というやつは、やりたいときにやるものでなく、中央政権の動向を見て、不安定な時を見計らってやるそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86 これなども、将軍の代替わりの機会を捉えてやっています
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- tanuki4u
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解釈は 双調平家物語ノート2 院政の日本人 (単行本) 橋本 治 (著) この方の本からの推定。 記憶違いから、間違った解釈かもしれないが、私は読んで、前の回答のように理解した。 後光厳とすると、兄の崇光天皇系列が本流だったが、正平の一統のあと他の皇族が南朝に拉致されたすきに即位したという負い目と言うか傍流意識も強かったのかもしれません。 それが故に、息子への継承を「明確」にする必要があったのかもしれません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
お礼
何度も回答ありがとうございます。 ご自身の解釈だ、ということですね。 間違った解釈だとは思いません。 とても貴重なご意見をありがとうございます。 後光厳に傍流意識というのはあったような気がしますね。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど、衆徒が、「俺たちの取り分を増やせ」というのが神木入洛の目的だったのですね。 すいません、写し間違えちゃってますね。 「新帝の即位式妨害」ですね、意味通らないはずです。 そうか、南北朝にわかれていたので即位式が重要視されていたのですね。