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分からないのですが教えてくださいませんか。
今日本語を勉強している人です。次は勉強している文章の一部分です。あるところは外国人の私にとって理解できないのです。日本人にご指導してほしいです。 ところで、学ぶということは、当然、多くの知識を得ること、知るということですが、これに関して、あるクイズ番組で、司会者が次のように言っていました。「知るは楽しみと申しまして、知識をたくさん持つことは人生を楽しくさせてくれます」と。しかし、これはむしろ逆です。知ることは苦しみの始まりなのであって、それが本当に知るということです。というのは、知って楽しいというのは、自分にはまったく関係のない事柄だからです。そこには主体が関係していません。主体と客体、こちら側と向こう側の間にガラスの壁を置いて、壁の向こうを眺めて楽しんでいるようなものです。これなら、壁の向こうは変化があってけっこうおもしろいけれど、壁がなくて、風景が自分と同じ場にあったら、これは他人事ではなくなります。風が吹けば自分も吹かれるし、寒さがくれば自分のところも寒い。こういうかたちで人間は実際に生きているのです。 質問(1)「知ることは苦しみの始まりなのであって」はどういう意味ですか。具体的に何をさすのですか。
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御質問者様が、この文章の、一つ一つの、ことばの意味は分かるが、全体を通して言おうとしていること、表面的な意味を越えて筆者が言おうとしていることが理解できないということでしたら、これは文学や国語の範囲を越えて哲学の問題になるかも知れません。 「知る」ということを机の上で本を読んで、または他人のお話を聞いて勉強する「知識」として扱うのか。 あるいは自分自身が経験・体験することを「知る」とするのかで考えは違ってくるでしょう。 ここで筆者が「本当に知るということ」「主体と客体」という、ことばを用いていることに注目してください。 さて御質問者様は「本当に知る」ということは、どのようなことと御考えになりますか? そのあとで 「知って楽しいというのは自分には、まったく関係のない事柄だからです。そこには~ 壁がなくて風景が自分と同じ場にあったら、これは他人事ではなくなります。風が吹けば自分も~」 ここの部分を、もう一度お読みになれば筆者が何を言おうとしているか、お分かりになるでしょう。 つまり人生において「知る」ということが机上の知識を指すのか、実体験をこそ指しているのか、ということを御考えになれば 「知ることは苦しみの始まり」という意味も理解できてくると思います。
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- hanako171
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「つまり、知るということに、自分が主体として関係している場合は、楽しいなどと言ってはおれないということです。本当の「知」とはこういうものであって、それと、無責任な、評論家的な「知」との違いをわきまえておく必要があろうと思います。 この点で、人生にはリハーサルがないということも念頭におくことが大切でしょう。芝居は何回もリハーサルをやってから本番がきます。 だが、人生はそのときそのときが本番なのです。だからこそ、真実に生きるためにはどうすればよいかと問いかけ、本当のことを知ろう、学ぼうとせざるをえないのです。たとえ、それが苦しみをもたらそうとも、場合によっては、ひどい目にあわされようとも。本当の「知」を得るためには、これくらいの覚悟がいるものです。論語の言葉に「朝(あした)ニ道ヲ聞カバ、夕(ゆうべ)ニ死ストモ可ナリ」というのがあります。いったん真実を知ったならば死んでも悔いはない、そういう真実の探求を心がけたいものです。 」 が後に続きます。(真下信一先生の文章です) この後半部分(「だからこそ」以下)が「苦しみの始まり」でしょう。もっとも、クイズ番組程度なら覚悟が無くても良いと思いますが。 レベルの高い文章を使ってますね。
- 安房 与太郎(@bilda)
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ネットQ&Aは、知りたい願望と教えたい衝動を結びつけています。 ときに「知らなければよかった」という経験もありますが、近代思想 の潮流は「知る権利」から「情報開示」に向って、まっしぐらです。 あるクイズ番組の司会者が誰なのか、すぐに思いあたりません。 どんな立場の日本人が、どんな目的で書いたのか、図りかねますが、 とても回りくどい、時代おくれの文章だと思います。 その筆者は《旧約聖書》を教えたいのでしょうか。 アダムとイヴは、たがいに「知った」ために楽園を追放されたので、 古代ユダヤ教では、セックスこそが原罪と考えられたのです。 悪がしこいヘビにそそのかされたイヴが、知恵の象徴であるリンゴを 食べてから、急に裸であることが恥かしくなって、イチジクの葉を身に つけます。いわば「知らなければよかった」という寓話なのです。 そのあと、しばしば夫が妻を「知った」という表現によって、系図が つづくので、ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒にとっては議論 の余地がないでしょう。 ところが、現代のイスラム教(とくにシーア派)では、ペルシア文化 の最盛期に、学者や芸術家がアルコールを賛美したことを認めないため、 「あれは学問や知識を、酒にたとえていたのだ」と説明しています。 倉田 百三のベストセラー《愛と認識との出発 19500630 角川書店》は 「諸君は(性について)知りたいであろうが、自制することが青春だ」 と説いていますが、いまの若者には通じないでしょう。 ネットQ&Aに、質問のための質問や、自分の存在を補強するための 回答があるとしても、かつて沈黙していた羊たちが語りはじめたのです。 明快な論理は、ずばりと表現することが不可欠なのです
- wsws
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これは外国人とか日本語は関係ないと思います。 自分の立場との関係です。 知ることによって 選択肢が広がります。どちらを選ぶかが悩んで苦しい。 恋人・奥さんの情事を知って苦しい。 他人事のテレビドラマは殆どがこの展開です。
- o24hi
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こんにちは。 >「知るは楽しみと申しまして、知識をたくさん持つことは人生を楽しくさせてくれます」 この場合の「知る」は「知識」として知るということで,自分には直接害の無いたぐいのことを「知る」ということてですね。 >「知ることは苦しみの始まりなのであって」 この場合の「知る」は「知識」としてではなく,自分に現実にかかわってくる事柄を「知る」と言うか「知ってしまう」と言うことですね。 例えば,あしたテストが予定されているとします。 先生に,あしたテストがあると言われて,テストがあることを「知る」と,気になりますよね。 一方,何も知らされず,明日いきなりテストがあれば,今日は何も悩む必要が無いわけです。 そう言うことですね。