- 締切済み
三矢の教えのもとになった中国の西泰録の故事
毛利元就の三矢の教えの伝承は、ほぼうそであるということは有名ですが、その元になった中国の西泰録の故事について、教えてください。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
みんなの回答
- bakansky
- ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.3
『西秦録』については既に博学な回答者の方が回答されています。 ご質問の趣旨とは違いますが、「三矢の教え」のエピソードの起源について一言。 チンギス・ハーンとその3人の息子たちとの間のものが伝えられたということを聞いたこともあります。
noname#30758
回答No.2
「西泰録」ではなくて「西秦録」ですね。 「十六国春秋」の中の西秦について書かれたものです。 (建弘)七年(西暦426年)、白蘭王吐谷渾阿柴卒、白蘭王吐谷渾阿柴臨卒、呼子弟謂曰、汝等各奉吾一隻箭、將玩之地下、俄而命母弟慕延曰、取汝一隻箭折之、延折之、又曰、取十九隻箭折之、延不能折、柴曰、汝曹知單者易折、衆則難摧、戮力一心、然後社稷可固、言終而卒。 阿柴と阿豺で人名の異同はありますが、記述自体はNo1さんの挙げた「魏書」とほぼ同じですね。 以下のURLの(注4)に載っています。
- sammi-2837
- ベストアンサー率56% (99/175)
回答No.1
西泰録の故事というのは寡聞にして存じませんが、 「魏書」巻一百一・列傳第八十九・吐谷渾に 阿豺又謂曰、汝等各奉吾一隻箭、折之地下、俄而命母弟慕利延曰、汝取一隻箭折之、慕利延折之、又曰、汝取十九隻箭折之、延不能折、阿豺曰、汝曹知否、單者易折、衆則難摧、戮力一心、然後社稷可固、言終而死 という「折箭のいましめ」の故事があるそうです。