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旧日本軍の服の人が上野公園等にいた理由
質問します。 子供の頃(昭和40年代)日曜日に上野公園等に出かけると、戦争で足や手を失った方が、白い袈裟のような服や、軍人のかっこうをして、ハーモニカやアコーディオンを鳴らしていた風景を、時々思い出します。 あの方たちは、戦争の悲惨さを訴えていたのであろうかとおもいますが、本当の目的はなんだったのでしょう?。 当時をご存知の方、宜しかったらご回答ください。
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戦後、十分な保障を得られなかった傷痍軍人の方が上野公園や、その他の公園などで募金を募っていました。ご自身の生活費や自活団体の運営費にしていたのではないでしょうか。 現在でも時々見かけます。中には物乞い目的の偽者もいるようです。
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- hawks21
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「祈平和」と書いた箱、白衣姿に戦闘帽。義手や義足を外して座っておられました。しばらく見ないと思っていましたが、昨年大阪市内で見かけました。終戦60年目ですから、少なくとも80歳前後ということですね。 戦後すぐは数も多かったために、集団でアコーデオンを演奏したりなどの映像が残っています。 名誉の負傷、と言う事で戦争中は色々と保護されたようですが、敗戦後は国家自体が貧窮のどん底で、敗者・弱者にたいする余裕がなくなってしまいました。金鵄勲章には年金が付いていたのですが、戦後しばらくは停止され、体の不自由な傷痍軍人の方にとっては職もなく、ああいった形で道行く人々に援助を求めるしか生きる術がなかったのでしょう。
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ご回答ありがとうございました。 今でもはっきり記憶に残っていますもので、 参考になりました。
- hawks21
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「祈平和」と書いた箱、白衣姿に戦闘帽。義手や義足を外して座っておられました。しばらく見ないと思っていましたが、昨年大阪市内で見かけました。終戦60年目ですから、少なくとも80歳前後ということですね。 戦後すぐは数も多かったために、集団でアコーデオンを演奏したりなどの映像が残っています。 名誉の負傷、と言う事で戦争中は色々と保護されたようですが、敗戦後は国家自体が貧窮のどん底で、敗者・弱者にたいする余裕がなくなってしまいました。金鵄勲章には年金が付いていたのですが、戦後しばらくは停止され、体の不自由な傷痍軍人の方にとっては職もなく、ああいった形で道行く人々に援助を求めるしか生きる術がなかったのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。 今でもはっきり記憶に残っています。 弱者に対しては、国も冷たかったのですね。 参考になりました。
- ss79
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当時軍人には軍人恩給、傷痍軍人には傷痍年金を支給する定めでしたが、敗戦後のインフレの為到底生活出来ませんでした。 しかも職を得るには傷痍の身では無理でした。 この為街頭に立って同情と施しを受けたのです。 しかし心ない人がいて軍人でもないのに偽物の真似をして同情を食い物にする人が出てきた為、この光景も次第に少なくなりました。 今では知る人もなく戦後の風物詩となった光景です。
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早速のご回答ありがとうございました。 >敗戦後のインフレの為到底生活出来ませんでした。 良く解りました。 その頃は戦後20年、今よりも色濃く戦争の残したものを見ることが出来たのですね。 ありがとうございます。
傷痍軍人の白衣での募金活動のことだと思います。 戦争によって傷ついた傷痍軍人に対して、戦後すぐの段階では国からの補償が何もなかったため、職に就けない程度の障害を負った人たちが募金を求めて町に立ったのが始まりだと思いますが、それに乗じて偽の傷痍軍人や同様の活動をしたり、また政治活動的なニュアンスも含まれるなど、全国的な問題になりましたが、後にできた傷痍軍人の援護施策等により徐々にその数を減らし、現在では見ることもなくなりました。 詳細については、「傷痍軍人 白衣募金者」で検索すると色々出てくると思います。 余談ですが、私が子供の頃、戦争で脚を怪我して歩けないと訴えていた募金者が時間が来て、すっくと立ち上がって駅に向かって歩き始めた光景を見て驚いたことを思い出しました^^
お礼
早速のご回答ありがとうございます。 >詳細については、「傷痍軍人 白衣募金者」で >検索すると色々出てくると思います 検索してみます。 ありがとうございました。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 >生活費や自活団体の運営費 納得できます。募金を募っていましたね。 でも、彼らは国からお金をもらえなかったのでしょうか?。 もらえても小額だったのでしょうか?。