締切済み 聖徳太子が手に持っている長細い板は何ですか? 2005/04/16 11:58 聖徳太子など歴史上の公家や武将の肖像画で、 手に持っている棒のような長細い板は何という名前で 何に使うものなのですか? みんなの回答 (5) 専門家の回答 みんなの回答 uuuuuuuuuuuuuuuu ベストアンサー率18% (14/76) 2005/04/16 18:49 回答No.5 名称はもう既に回答が出ているので、使用目的を。メモ帳代わりに使っていたそうですよ! 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 dhvuk245 ベストアンサー率9% (62/639) 2005/04/16 13:04 回答No.4 ドラえもんでは背中を掻くのに使ってましたが、 しゃく(笏)です。 ちなみに笏を作るための木の種類は決まっていて、 イチイという木から作られます。 笏を作る木は木の中では一位だ、というのでイチイといいます。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 o24hi ベストアンサー率36% (2961/8168) 2005/04/16 12:13 回答No.3 こんにちは 「笏」(しゃく)と言います。 古代、束帯を着るときに持った道具で、初めは式次第などを紙に書き、裏に貼って備忘用(カンペですね)として使っていたそうですが、のちには儀礼用となりました。 聖徳太子にはカンペなんて要らないでしょうから、儀礼用に持っていたたんでしょうね(笑)。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 1 umedama ベストアンサー率31% (503/1575) 2005/04/16 12:08 回答No.2 しゃく(笏) 参考URL: http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%B7%A4%E3%A4%AF&kind=jn&mode=0&base=1&row=4 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 rmz1002 ベストアンサー率26% (1205/4529) 2005/04/16 12:03 回答No.1 あれは「笏(しゃく)」といって、もともとは裏に今で言うカンニングペーパーみたいなのを貼っていたそうですが、もっぱら「体裁を整えるため」のもののようです。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 聖徳太子が出てくるマンガ こんばんわ。 聖徳太子が出てくる『ギャグマンガ日和』を読み、他に聖徳太子が出てくるマンガはないか探しています。 シリアス、ギャグ、歴史、恋愛、何でもいいので聖徳太子が何かしらの形で出てくるマンガをご存知でしたら教えて下さい! ご回答宜しくお願い致します。 聖徳太子について 聖徳太子って事実上蘇我氏の傀儡だった訳ですが、 蘇我氏が悪人となり聖徳太子がヒーローのような扱いになってるのはなぜでしょうか。 そもそも仏経信者なのに名前に「聖」が入ってるのはなぜでしょう? 何かキリスト教っぽい感じもするのですが。 【聖徳太子】聖徳太子像を見ていてふと思ったのですが 【聖徳太子】聖徳太子像を見ていてふと思ったのですが、聖徳太子ってインド人だったのでは? 髪型と服装と手のポーズといい、伝承した龍や像など日本にいない動物を寺のモチーフに採用してるし、インドから日本に渡って来る途中に中国や朝鮮半島の日本より進んだ文明の職人も引き連れて来れた。 聖徳太子がインド人なら全ての辻褄が合う気がします。 ちなみに龍は虹と言われているが、聖徳太子の龍はアフリカ大陸にいた麒麟のことだったと思う。 インド人の聖徳太子はアフリカの麒麟を見たことがなくインドにアフリカの情報が伝承されたときには龍の形になっていた。 聖徳太子が中国人や朝鮮半島の出なら虹から龍になって角は無くなって髭が長い龍になってたはずだし、象もモチーフに採用してないと思います。 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 聖徳太子は架空の人物ですか? 生存したとしても、生存中は聖徳太子という名前ですら無かったようですが、その存在すら疑われているようです。冠位十二階や十七条憲法、遣隋使も、聖徳太子とは関係無かったり、架空であったりするようですが、現在、最新の歴史教育としては、どのように教えられているのでしょうか? 聖徳太子の読み 聖徳太子の読みが「しょうとくたいし」であると、どうして分かったのか教えてください。 確か、当時はひらがなもカタカナもなかったと思います。 それにもかかわらず、聖徳太子やその他(例えば小野妹子)の人物の名前の読みがどうしてわかるのでしょうか? ビリギャルの本を読んでいたら、ビリギャルが「せいとくたこ」と読んでいたシーンで、不思議に思いました。 聖徳太子について よく聖徳太子は大勢の人が話したことをいっぺんに聞き取れたと言われていますが、それはやはり逸話ですか?それとも本当にそのような才能があったんでしょうか。 どれくらい真実味のある話なのか知っている方は教えてください。あとあの手に持っている棒状ののようなヘラみたいなものも何か教えてください。友人とそんな話しになって、どうしても気になりだしてしまいました。よろしくお願いしまーす。 聖徳太子は実在しなかった? 聖徳太子は実在しなかったと主張する歴史学者がいます。岡田英弘氏もその一人です(岡田英弘(著)「日本史の誕生」〔弓立社〕の97ページ)。あなたは、この説を信じますか。私は信じられないのですけど。 聖徳太子 歴史の漫画を読んでいるとこう書かれていました。 聖徳太子の長子の山背大兄王は、蘇我馬子の娘の子で、皇位継承候補者だった。 推古天皇の死後、蘇我蝦夷は、山背大兄王をきらって、田村皇子を推し、のちに入鹿が、山背大兄の排除を企て、屋敷を襲わせた。 王は大きな戦になるのを避けて自殺した。 山背大兄王は聖徳太子の子供だったような気がするのですが、蘇我馬子の娘の子と書かれているのですが、 どういう意味かわかりません。 頭が悪いので、小学生でも理解できるように解説していただけると嬉しいです。 どなたか、教えてください。 聖徳太子の予言書について 以前テレビ番組で聖徳太子が予言書を書いていた、という内容のものをみました。これの名前を知りたいのですが、又この予言書に関する文献をご存知の方 おられましたらおしえて下さい お札には聖徳太子や夏目漱石の肖像が入っていますがウルトラマンやミッキー お札には聖徳太子や夏目漱石の肖像が入っていますがウルトラマンやミッキーマウスなどというわけにはいかないのでしょうか?常識的には無理なのはわかっているのですが。宜しくお願いします。 聖徳太子について カテゴリはここで良いのか、それすらも分かってないのですが、違っていたら「違います」の回答でも構いません。 聖徳太子、十七条の憲法の第1条『和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為す』の中の『和』とは何と読むのが一番正しいのでしょうか? 昭和10年に出された改訂では、「やはらか」つまり『やわら』と読んでいますよね? もしくは、少し聞いた話では、当時『和』と言う人がいたとか・・・。 それでも質問は同じです。『和』とは何と読むのでしょう? 実は、クイズみたいなもので調べているのです。 人(女性)の名前で『和』と書いた場合、何と読むのか? 上の文章は自分で調べ、そこまでたどり着きました。関係があるのかないのか、それも分からないのですが・・・。 下の文章は問題を出した知り合いからヒントと言う感じで聞きました。しかし「やわら」とは読まないそうです。 もし、『分かる』と言う方、『こうじゃないか?』と言う方、いらっしゃいましたらよろしくお願いします。 【歴史・日本史】日本に聖徳太子以前にお寺は存在しま 【歴史・日本史】日本に聖徳太子以前にお寺は存在しましたか? 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋に行ってどうして生きて帰ってこれたのでしょうか? 小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋にいって、どうして生きて帰ってこれたのでしょうか? 聖徳太子の国書は「日出る処の天子,書を,日没する処の天子に致す。恙なきや。」で始まっていますが、中華思想の強い中国の王朝では非常に無礼なものと考えられたと思います。特に強大な力をもった統一王朝の隋に行って、対等な関係を示す「天子」を持った国書差し出せば無礼者としてその場で殺されてしまうような気がします。 ところが現実には裴世清を伴い帰国し、聖徳太子の対等外交政策は一応成功しました。高句麗の脅威に対抗するため倭国と手を結ぶ必要があった等の説明を聞きますが、どうもそれだけでは「天子」という言葉の記載のある対等の国書を受け取った上裴世清まで使者として送った理由としては、彼らの中華思想の強さや何百年かぶりの統一王朝の隋の登場といった背景を考えると、説得力がやや弱いと思います。 聖徳太子や小野妹子は隋王朝内部にコネがあったり、彼らの弱みを握っていたのでしょうか? あるいは朝鮮半島出身ではなく、大陸出身の渡来人がブレーンとしていたのでしょうか? ギザ10とか… 古いお金(聖徳太子の肖像画の10000円札とか)や、ギザ10を買い取ってくれるお店は池袋にありますか?? あったら場所を教えてください。 肖像画から人工音声 昔、学研の付録で聖徳太子の肖像画から聖徳太子の声を再現したカセットテープというものがありました。当時は聖徳太子ってこんな声だったのか、ととても感心したのですが、今考えると、なんだかあれは胡散臭いです。あの当時(約20年前)に本当にそのような技術があったのでしょうか。また、今の技術をもってして、顔写真などからそのひとの声を合成することは可能なのでしょうか。 「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は存在しなかった??? 1)「北条早雲」と呼ばれている人物 名字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。 号は早雲庵宗瑞。または伊勢宗瑞。 正式な名のりは、平長氏、あるいは平盛時。 北条氏を称したのは子の氏綱の時であるので 従って、「北条早雲」は存在しなかった。 2)「聖徳太子」とは呼ばれている人物 本名は厩戸皇子。 別名、豊聡耳・上宮王とも呼ばれた。 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。 聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した『懐風藻』にて初めて見られるものである。 従って、「聖徳太子」は存在しなかった。 3)「任那日本府」 『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那日本府」が見え、 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那日本府」が多く登場し、 『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」と見えている。 しかし、6世紀の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかった。 日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。 従って、「任那日本府」は存在しなかった。 以上の理屈により、現在は「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったという者がいます。 「北条早雲」と呼ばれている人物は歴史上存在しなかったのだから、伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼうということです。 (韓国では「任那」の存在すら認めていませんが・・・) あなたは以上の理屈は正しいと思いますか? つまり「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったと思いますか? 聖徳天皇説。 聖徳太子は、一度天皇に即位しているのではないでしょうか? 推古天皇の陰謀?により、息子竹田皇子を即位させようとしたが、死去。 第一候補者、聖徳太子は政界からはじかれていたが、適任者がいなかった為、急遽政界復帰。 600年からめまぐるしい独裁とも取れる政界改造を行う。また、新羅討伐隊を結成し、朝鮮半島に軍隊を派遣しようとした。(二度とも失敗に終わるが、、、) 摂政ごときが、こんなこと独断で実行できますか?何故蘇我氏は、若者の無謀ともとれる決断に黙って従っていたのか?愛人の推古帝が最高位なら、こんな若者簡単にひねりつぶせるはずなのに。 最終的に聖徳太子は天皇位を剥奪されます。天皇だった事実も闇に葬られてしまいます。 日本書紀では、太子は愛人と自殺したと書かれています。現人神が自殺なんて、あってはならないことです。当時書記を読まれた方は、太子に幻滅したでしょうね。でも、本当にそうなのかな?古代史 特有の暗殺じゃないですかね。 日本の歴史では、改革派の権力者達は、暗殺され、情けないレッテルを貼られることが多い。 太子もそのうちの一人だったのではないでしょうか? 否定、肯定、両意見 待っています。 飛鳥~の子供の髪型 聖徳太子(子供時代?)の肖像画などに見られる、髪を左右二カ所でまとめる髪型はいつの時代まで続いて居たのか教えて下さい。また、その髪型を元服まで結っていたのでしょうか?ご存知の方いらっしゃいましたら御回答お願いします。 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ まづ 憲法とやらを読みます。 ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、 (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 次のように問います。 (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▼ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ 奔亡するものなほ多し。 禁ずと雖(いへど)も止まず。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに (万葉集 巻三・426番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。 (4) たとえば ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。 口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。 権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう? 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ まづ 憲法とやらを読みます。 ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、 (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 次のように問います。 (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▼ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ 奔亡するものなほ多し。 禁ずと雖(いへど)も止まず。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに (万葉集 巻三・426番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。 (4) たとえば ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。 口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。 権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう? 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など