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「八百屋お七」の物語はどこまで歴史的事実ですか?
八百屋お七は、お寺の小姓会いたさに、放火をしたということで有名です。 ところでこれはどこまでが事実なのでしょうか? 火事になったとして、その犯人を探し出すのは大変なことです。 本人が自主しないかぎり、迷宮入りでしょう。 動機が、お寺の小姓に会いたかったからというのも、信じにくいところです。 会いたかったら、会いにゆけばいいのです。 手紙を送るという方法もあります。 16歳の女性が、火事になったら好きな人に会えるなどという荒唐無稽なことを考えつくでしょうか? 論理的に飛躍しすぎています。 7,8歳の少女ならいざしらず、もう立派な大人です。 現代の視点からみると「ありえない」です。 また、処刑されたのは事実なのでしょうか? よろしくお願いします。
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実際にあった話ですよ。それを元に物語化したんですね。 火事で焼け出された時、逃げた先の寺で小姓と恋に落ち火付けの後、 処刑まで事実です。 お七のお墓が実際に文京区の円乗寺というお寺にあります。 円乗寺はお七一家の菩提寺だったそうでお七が恋した小姓は 実はこの円乗寺の小姓だったんです。名は本当は佐兵衛とか庄之助とか という名だったという説がありますがここでは劇中の吉三郎としましょう。 お七一家は丸山本妙寺前に自宅を新築し、円乗寺を引き上げたのですが 恋焦がれるあまりお七は抑うつ状態になってしまい、 「また火事になれば円乗寺に避難してに吉三郎に会える」と思い込み お七は自宅に放火しますが火を放った後、怖くなりお七は自分で半鐘を鳴らし そこを取り押さえられた事で放火犯と分かったとの事だったかな? 大火になったと言う説もありますが、実際にはボヤ程度だったらしいです。 しかしお七は火付けの大罪を犯したとして、奉行所の取り調べを受けますが、 奉行はお七が若く、幼い恋心が故に起こした行為にいたく同情し、 本来ならば放火犯は火あぶりの刑ですが、15歳以下の年少者は罪一等を 減じるという規定を使いたいと思いますが、お七はそれに対して自分は確かに 16歳であると主張し、生まれた時のお宮参りの記録を見てくれとまで言った そうです。結局、刑は執行されお七は火あぶりで処刑となったわけです。 15歳と言えば刑を免れたかもしれないのにお七はそれを拒否したんですよね。 それ考えると大変強情で芯の強い女性だったように思われますが。 お七は母親に吉三郎に会う事を禁じられていたようです。 行動も見張られて外出もままならかったようですよ。 その当時は社会通念も常識も違いましたから、結婚前の娘が外の男にうつつを 抜かすとろくな事がない、と思われたでしょうね。江戸時代の女性の地位と 言うのはまだまだ低くて、女性は政治と家のための道具だった訳で。 手紙を出したり会いに行くのも未婚の若い女性の身から行動をおこすのは 婦女子のたしなみから外れる事で恥ずかしい事だったはずです。 それこそ本当に好きな人と恋愛し結ばれる人はまだまだ珍しかったと思いますよ。 たいていは親か地域の顔役さんの持ってきた縁談で結婚し貰って下さって ありがとう、という時代でした。 逃げた先の寺小姓と恋仲なんてその時代ではスキャンダラスでハレンチな事 でしょう。抑圧されすぎて思いが募ってしまった結果だと思います。 それに比べると今はいい時代ですね。メールで告白したりも出来るし、 簡単に会いにもいけるし。ちなみにお七が火付けまでして恋い慕った 相手は西運という僧で、お七のこともあって厳しい修行を積み、 のちにたいへん偉い坊さんになったと言われています。
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〔八百屋お七(1668-1683)〕 http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/yaoya-ositi.htm 〔お七・吉三の比翼塚〕 http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/kisshoji/hiyokuduka.htm 上記URLをご覧ください (昔の女性の心情や行動は、現代を生きる若い人には理解出来ないでしょうね)