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塵劫記について
NHKで高校数学の先生が塵劫記の本が江戸時代各家庭にあるくらいだったと発言してましたが、まあ言いすぎと思われますが、逆に素直にとって江戸時代の和算家の人のほかに商家では置いてたと言うことですか?
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先生がいった「江戸時代は各家庭」は、確かに大袈裟でしょう。 でも「和算」が普通の人々の間に非常に浸透していたのはどうも本当らしいです。ただ、私の聞いた話ですと、商家ではなく、日常、算術を必要としない武家や豪農などにも広まっていた、いやむしろ、そういう人たちが和算の担い手だったようです。 「塵劫記」は、日常使う算数レベルの本ではありません。微分積分までカバーした、高等数学の本です。ではなぜ、そんな本が一般に? 江戸時代は、数学は「ゲーム」だったんです。 江戸幕府は、科学研究に対しては、用兵術とか、医学とか、実用的なもの以外は、一切補助育成をしませんでした。だからそれ以外の科学は、民間に入って、好事家の手によって研究され、その目的も、あくまで知的満足だったようです。そのため、それぞれ相当なレベルに達していても、明治の近代化には使えなかった。平賀源内のエレキテルなんか、電信や電波に発展する可能性があったのに、「見世物」で終わってしまいましたよね。 和算も、各地に会がありました。会といっても、囲碁や将棋のサークルと限りなく近いものです。そのなかで、お互いに問題を出し合って、楽しんでいたようです。その成果を、たまに神社の額に描いて奉納したりしていました。今でも、和算の問題や答えがかかれた額を各地にみることができます。関孝和は、そういう「和算マニア」の、カリスマだったんですね。 そういう中で、俳句や和歌といったいわゆる「物持ち」(大商家もはいります)が備えておくべき当然の教養として、和算もあったわけです。『塵劫記』やその注釈本が流布していて、商家にもあったのは、そうした背景があったからだと、私は聞いています。 ちょっと話がそれるけど、江戸時代は、公の情報しか表向きは入ってきませんでした。民衆をつんぼ桟敷におこうとするのは、今も昔も、為政者の常套手段ですから。でも民衆は知りたい。そんな時に、全国に散らばっているこうした俳句や、和算のサークルが、それを取り次ぐ役目を果たしていたという研究があります。有名な俳句の師匠ともなれば、こうした地方のサークルを回って俳句の指導をすることで、生計を立てていたわけですが、和算家も同じでしょう。そして彼らが、情報を持ち歩く役目も果たしていたようなのです。アヘン戦争の情報が、長崎に入って、幕府に届く前に、栃木県の古河市の豪農に届いていた例もあります。「芭蕉スパイ説」も半分くらいは本当かもしれない。「女子高生の情報網」や、インターネットに、ちょっと近い気もします。 以上です。お役に立ちましたでしょうか。
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- junt
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『塵劫記』が、今でいえば小学校二年生レベルの加減乗除を書いたものであること。江戸時代の和算が世界トップレベルであったこと。江戸時代には、寺小屋の他に『算学塾』という数学専門の教育機関があるなど庶民の数学に対する関心の高さなどからみて、あながち、おおげさとは言いきれないと思います。 関孝和は江戸時代前期の世界的な数学者で、彼の業績を上げればキリがありませんが、例えば微分積分の発見、点鼠術(てんざんじゅつ)と言って文字係数の代数式を筆算で表わせるようにした代数記法を初め、方程式の判別式、ニュートンの近似解法、行列式やベルヌイ数の発見、未知数の変換、正負の根の存在条件、極値論、近似分数、、不定方程式の解法、正多角形や円周率に関する計算、パップスギュルタンの法則、ニュートンの補間公式、方陣、円錐曲線論など、ちょっと聞いただけでも頭が痛くなるような難解な高等数学の発見や計算を行っています。その彼が小さい頃、見て独学の教材にしていたのが『塵劫記』でした。 彼の研究の中でも、得意としていたのは立体幾何ですが、その基となったのは土壌体積の計算でした。なぜ、和算が土壌体積の計算から始まったかと言うと、農業で水田は絶対水平面が必要なのに、日本の土地は傾斜が多く斜面を削って水平面にする必要があり、立体幾何を使って土壌の堆積計算をする必要があったのです。 つまり、関孝和は武士であても、その高等数学の基になったのは、日本の農民が日常生活の中で使っていた数学でした。そうだから、彼の弟子には、農民出身者が多いのです。そして、彼の高等数学は、再び農民や一般庶民に還元されて、江戸時代の科学や文化レベルを高めたのです。 高低差わずか10メートルで全長43キロの玉川上水を作ったのは、百姓の玉川庄衛門・清右衛門兄弟でしたし、静岡県の百姓大庭源之丞が用水トンネル・箱根用水を作ることができたのは、民間の算学塾がいかに高度で実用的な教育をいていたかを物語るものです(水がどこでも同じ速さで流れるようにするのは高い知識と技術を必要としました)。 水呑百姓だった二宮尊徳も、立体幾何をフルに応用した地形改良によって、農業改革を行なっています。また、多摩地方の農民は、農業の余暇(農閑期)に高等数学を解いて楽しんだり、、数式を絵馬に画いて神仏に奉納したりしています。 以上のことから、塵劫記くらいの低いレベルの本が、商家や庶民の家にあったとしても、少しもおかしくないと思います。(No.3さんの言われる微積の書いてあるという『塵劫記』がいつの時代の版か分かりませんが)
- charpon
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>塵劫記の本が江戸時代各家庭にあるくらいだった 言いすぎかもしれませんが、あながち間違いではないと思いますよ。 「塵劫記」は、当時の実際の数量生活を素材に日常生活に必要な数学が独習できるよう,挿絵と解説付きで系統的に配列されて、社会の各層に広く普及,400種を越える類書がみられました。 江戸時代中期の識字率は男性で60%だったと言われております。当時の人口のほとんどが生活していた農村においても、村政や貸借関係の古文書が旧家などで多く見られることからも間違いではなかったようです。 その古文書などと一緒に、「塵劫記」とその類書(「…塵劫記」)は、よく伝え残され、旧家の蔵の史料整理などをすると出てくることがあります。農村の庶民の間でも貸借関係がありましたので、利子の計算など,日常生活に必要な諸計算を学ぶのに利用されたのでしょうね。 勿論、数学の入門書なので商家では必須だったのではないでしょうか。
- AC120V
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「塵劫記」江戸時代の版ではありませんが 今、私の手元にあります。 これは、江戸時代に寺子屋で算数の教科書として、よく使われた当時ベストセラーとなった本です。 内容も実用的で「大きい数の名前」とか「小さい数の名前」とか 「割り算の九九」とか 「二一天作五、二進一十」と書かれて、横にソロバンが図解で書かれていたり 商家でソロバンの練習用に使われたりしたようです。 ( 現在ソロバンで割り算をする人は少ないと思いますが ) 利息の計算、両替の問題など読んでいると楽しいですよ。