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和算って何が違うんでしょうか?
昔の日本には和算がありレベルが高いものだったと聞きましたが、いったい何が違うんでしょうか? 数の世界って人や国によって答えが変わるものではないですよね? この方法なら1+1=2になるけど、別の方法なら1+1=3になるというものでもないし、なってはいけないと思います。 それなのにわざわざ和算というジャンルがなぜあるのかが分かりません。 レベルが高いらしいですが、単純に高校で教えるような数学を小学生に教えていたというような話なんでしょうか? 小学生なのに高校生レベルの数学が解けるみたいな感じで、教えるレベルを早めただけ? それとも和算は算数や数学ではないんですか?
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- j3100-pips
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もちろん分かっているでしょうが 二一天作の五は1÷2=0.5を表すものですね。 いや10÷2=5を表すものと言った方がいいのかな。 天作の五というのは、 そろばんの上の珠と下の珠を分ける棒がありますね。あの上の方に珠を一つ置く という意味です。 No.3さんで、やっと分かりやすい説明がいただけましたね。
- staratras
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「和算」というのは、江戸時代に日本で独自に発達した「数学」です。 西洋の数学とどう違うかといえば、もちろん数字や用語が違いますが、それだけではなく「重きを置くところ」が違います。これは詳しく論じるとそれだけで本が1冊書けるほどの重いテーマですが、ひとことで言えば西洋の数学が「論理」を重視し、「証明」ということを大事にしたのに対し、和算では優れた計算法をうみだしましたが、「証明」という概念はありませんでした。たとえばユークリッドの「原論」(の漢訳本)は江戸時代の前半には日本に伝わっていますが、和算家の評価は低かった、というより、論証を展開する論理の重要さが理解されなかったようです。 和算は日常生活で使う加減乗除や開平・開立法のレベルにとどまるものではなく、行列式や無限級数など、その一部は同時代の西洋の数学の業績に先行するものもありました。例えば関孝和は連立方程式を解く過程で行列式の理論を提示したり(生誕350年にあたる1992年に発行された記念切手にはこの計算法を示した図が関の肖像画のバックに描かれています)、ベルヌーイ数をベルヌーイより早く発見したりしています。また関の弟子の建部賢弘の業績にも非常に見るべきものがあります。 ただし残念なことに、当時の日本では学者が西洋と交流することは不可能で、こうした優れた業績が同時代に外国に伝わることはなく、西洋の数学に影響を与えることはできませんでした。幕末から明治にかけて西洋の数学が本格的に伝わると、和算は次第にすたれ、学校教育に採用された西洋数学一辺倒の時代になってしまいました。なお「和算」という言葉は明治になってからできたものです。
- j3100-pips
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私が小学校で習ったそろばんは下に4つの珠がある今のそろばんでしたが、 そのころの商店の人は下に5つのたまがあるそろばんを使っていたりしました。 この5つ珠そろばんで、掛け算、割り算をするのも和算の一つだと思いますので、この話をしてみましょう。 日本には九九があるので子供が計算が得意だとか聞いたこともありますが、 あれは算数の計算を言葉にして覚えてしまうのですね。 つまり算数が国語になってしまうのです。 そろばんで足し算、引き算をするのは算数を指の運動に変えてしまうことでしょうか? 手先の不器用な私は不得意でした。 そろばんの暗算は珠の形を記憶してその変化もきちんとイメージできる能力で、囲碁や将棋の得意な人は得意かもしれないですね。 五つ珠そろばんで掛け算、割り算をする時は、九九とおなじような言葉があり、これを覚えることで、つまり算数を国語化することで容易に計算できるのです。 たとえば「二一、天作の五」(2÷1=0.5)などというのです。 四つ珠そろばんで掛け算、割り算をするのは、九九を使って算数の筆算をそろばんの上でするのですが、計算を珠の形に置き換える手間がかえって大変で、筆算でした方がよほど簡単ですが(だから足し算、引き算のようには広まってない)、五つ珠そろばんでは言葉を覚えれば簡単だなという感じがしました。 九九は筆算用に覚える言葉で、そろばん用に覚える言葉が五つ珠そろばんにはあったのに、戦後?それを捨ててしまったのだと思います。 まあ電卓ができれば無用のものではありますけど、そろばんは今でも使う人がいるのに、あれが消えてしまったのは哀しい気がします。 和算と洋算と何が違うかって、 アメリカの算数の教科書とドイツの算数の教科書は数字はアラビア数字で同じでしょうけど、その他の言葉は違いますね。 和算は数字もアラビア数字でなく漢数字を使うというだけの話だと思いますよ。 やってることは、もちろん同じですよ。 レベルが高いというのは幕末に(あるいは明治に)日本に来た西欧人が、当時の西欧のレベルより高かったのに驚いたというだけで、和算のほうが洋算よりレベルが高いだのいう話ではありませんでしょう。
和算というのは、大雑把に言えば計算テクニックです。 例えば鶴亀算というのは和算のテクニックの一つです。まぁ、鶴亀算自体は中国から伝わった物ですけどね。 私の理解では、和算という物は単に答えを出すことが目的になっています。 ところが数学という物は計算の答を出すことは最終的な目的ではありません。 中高生が習っている物を"数学"と言っていいかどうかは、私はグレーだと思います。でも、大学で数学を勉強すればその違いは明らかになります。 高校では関数を微分して導関数を求める練習をしますが、大学ではそもそもその関数が微分可能であるかどうかを問題にします。数学的に言えば微分可能であるかどうか定かではない関数を,いきなり「導関数をもとめよ」というのはナンセンスです。 でも"数学"を習った人がすべて純粋数学に通じている必要はありません。工学や他の自然科学の領域では、微分可能性を検証することなく、いきなり導関数を求めればそれで用は足りるわけです。 和算はそういう実学的な計算方法を追い求めています。 なお、たまたま微分可能性を例にとりましたが和算は微分積分というような解析学の方面には発展しませんでした。 そういうわけですから、私に言わせれば和算と言うのは高級な算数です。 数学と言うのはもっと哲学的な浮世離れした学問です。 典型的な数学上の課題は例えばこういう物です。 3 以上の自然数 n について、xⁿ + yⁿ = zⁿ となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない。 このことを証明せよ 私の理解では、和算はこの種の課題に何の手がかりも与えませんし、そもそも和算の興味の対象ではないです。