たとえば「うさぎ」は「英語」では「rabbit」である。
これは私たちが英語を学べば当然知っていることですね。
しかし、ある人々は「うさぎ」を「fox」と言っているかもしれません。
したがってこの「うさぎが rabbit である」という知識は
絶対に正しいとは言えないわけです。
こういう経験的知識で成り立っているものをここでは「理性」
と分類します。もう一度言いますが、この「知性=理性」の方は
絶対に正しいとは言えない部分が残ります。
それなのに人はこうして「目に見えて」「経験できる」もの
だけが正しいという態度に傾きがちです。
カントの純粋理性批判とは、「経験主義」「目に見えたもの主義」の
誤りを指摘したものです。
ところがわれわれには経験によらない知性があります。
たとえば 1+1=2 である。
これは私たちが経験によって知ることも出来るが、その普遍的
正しさは、すべての場合を検証しなくとも「正しい」と断言する
ことが可能です。カントは経験的理性を批判すると同時に
この「普遍的知性=神」の存在を示唆したものです。
さて、「絶対に正しい」という内的直観に至ったならば
人は揺るぎなく、「行為」をなすことが出来ます。
特に社会変革などのこれまでの「常識」で固められた世界の
変革には、社会的孤立や経済的不遇、政治的弾圧などのリスクが
伴いますから、この「普遍的知性」に裏付けられた確信が
なければとても出来るものではありません。
それが「知識」が単に「物知り」に終わるのと、断固とした
「行為」に高められるのとの違いです。
この「行為」に高められるような絶対的な知性、これが
カントの言う「定言命法」であり、「実践理性」です。
お礼
回答ありがとうございます