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カントにおける感性、悟性、理性の定義を教えて

ください。よろしくお願いします。

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  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.1

言葉の定義だったら、ウィキペディアを検索すれば分かるのではないですか? あるいは「カント」で検索すれば、ズラズラっと、解説が出てくると思います。 「カント」って、女性の、あそこのこと、あまり大きな声で質問しないでください、恥ずかしいから・・・・・ 私なりに理解している範囲でお答えすると、古代ギリシャから、中世末期まで、哲学で、理性という言葉はよく使われたけど、感性という言葉はほとんど使われなかったし、感性の役割は無いに等しいものでした。 そして中世では、理性・ラティオよりも、インテレクタス・知性の方が優位あり、理性・ラティオはそれに比べると劣ると考えられていました。 インテレクタス・知性は神の有する無限の能力のことであり、ラティオ・理性は人間の有する有限の能力と考えられていました。 その理性は、神が人間に与えたものと考えられていました。 だから理性は神の有する能力を「分有」するものと、考えられました。 故・木田元は、理性とは「神の出店みたい」なものと言いましたが、うまい表現です。 そして近世で、理性とは別に、感性の役割を重視したのは、16世紀のフランシス・ベーコンとその実験科学の提唱であり、また18世紀のバウムガルテンの「美学」という本からでした。 それというのも、デカルトが、人間を精神と物質に分離して、感性の役割が無くなり、両者の谷間で忘れられたからです。 美というものは、感性に基づくものだったからで、そこから近代美学というものが始まったからです。 また、ベーコンの実験科学から、単に理性があれば、それは真理だというのではなく、というのも、中世とか、デカルトは理性だけあれば、真理を知ることができると言っていたのですが、ベーコンは感性で「検証」しなければ真理とは言えない、と言いました。 今の私たちも、真理といえば、感覚でそれを「検証」しなければならないと考えていますが、今ではそんなことは当たり前ですが、中世とかデカルト、スピノザ、ライプニッツではそうではありませんでした。 理性だけあればいい、そして神が人間に「生得観念」としての理性を付与したのだから、理性は明晰判明であり、経験を必要としない、真理を洞察できると考えていました。 ところがカントは、その中世以来のデカルト・スピノザ・ライプニッツの考えに対して、英国経験論のロック・ヒュームの考えを対抗させて、理性中心の、理性優位の、その考えをひっくり返し、というより、神のインテレクタス・知性と人間の理性・ラティオの優劣関係をひっくり返し、理性優位の考えを唱え、神の知性・インテレクタスを悟性と言い代えて、貶めました。 以上のように、感性・悟性・理性にはひじょうに複雑な経緯と変遷が背景にあるのです。 西欧哲学史の知識がないと簡単には言えないのです。 今では、私たちは悟性を、簡単に知性と言っています。 中世のインテレクタスでなく、単に考える能力のことを知性と言っています。 そして理性とは経験を越えた事柄を考える能力と考えられています。 また、判断力に必要なものを理性と言っています。 従って感性とは、知性と感覚の間にあり、感覚データを受容する能力であり、知性と感覚データを結合し、それを橋渡しするもの、それが感性です。 カントはそれを直観と言っていました。 その直観の「内容」が感覚データであり、「形式」が時間・空間です。

Psychic_student
質問者

お礼

『知の歴史』(ブライアン・マギー)、『世界の思想史(上)、(下)』、『ビジュアルではじめてわかる哲学』(スティーブン・ロー)、『史上最強の哲学入門(西洋編)(東洋編)』(飲茶)などを読んだのですが、そこまで詳しい見解になれません。 『世界の思想史』は分かりやすく書いてあるけど長くて辛いです。2段で上下合わせて600ページあります。普通の本だったら1000ページぐらいありそうなやつです。たぶん読み込めば、ご回答の見解くらいになれるとは思うのですが、ちょっと時間がかかり過ぎてしまう。 お勧めの入門書とかあれば教えてほしいです。

Psychic_student
質問者

補足

お世話になります。また質問したのでよろしくお願いします。

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その他の回答 (1)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10082/12630)
回答No.2

以下のとおりお答えします。 >カントにおける感性、悟性、理性の定義 を教えてください。 ⇒哲学史的な観点からはすでに立派なご回答が寄せられていますので、私はもう少し「個人的」な見方でお答えしたいと思います。実は、私もかつて同じような疑問を抱いたことがありまして、その時自分なりにまとめてみたことがありました。 まず、「感性」は一般に、「感覚によって呼び起こされ、それによって支配される体験内容。したがって、感覚に伴う感情・衝動・欲望を含む」というように説明されていますが、カント的定義もこれとあまり違わないでしょう。 次に、「悟性」とは、「感性から与えられる所与を認識へと構成する概念能力で、理性と感性の中間にあり、科学的思考の主体である」とカントは言います。ある種、「仲立ち」的な性格を帯びているという定義づけです。 最後に、「理性」とは、「概念的思考の能力を包括していう。実践的には、感情的欲求に左右されず、思慮的に行動する能力である」です。カントは、理性が認識に関わる場合を理論理性、行為の原理となる場合を実践理性と呼びました。なお、カント以前の、特にカトリック(特に、「神学の侍女」とも言われたスコラ哲学)では、超自然的啓示に対して人間の自然的能力のことを表わしていました。 以上から、カントにおける感性・悟性・理性を(私の主観で)それぞれ数語ずつのキーワードで表せば、次のとおりです。(便宜上、番号をつけます。) (1)「感性」(Sinnlichkeit/Sensibilität):直観・知覚、経験 (2)「悟性」(Verstand):分析・総合、認識 (3)「理性」(Vernunft):推理・判断、倫理 ところで、感性・悟性・理性の類義語に「知性」があります。この語は、「頭脳の知的な働き全般」を指しますが、より具体的には、「知覚をもとにして、それを認識にまで作りあげる精神的統合能力」を言うようです。そこで、この語を一連の認識論的営為のまとめ役として位置づけると、 (4)「知性」(Intellekt):体系・包括、当為 のように追加して組み上げることができるかも知れません。 しかし、(さらに「自分語」的な見方をさせていただきますが)こう並べてみると、各術語の位置関係がちぐはぐに思えてなりません。特に「悟性」の「悟」の本義(真理に目覚めること)から考えて、この(2)の位置に「悟性」なる訳語を当てはめたことが、すべての混乱のもとではなかったか、とさえ思われてきます。(2)「悟性」と(4)「知性」との(内容はそのままに残して)、術語だけを相互に入れ替えると、次のように配列し直すことができます。 (1)「感性」(Sinnlichkeit/Sensibilität):直観・知覚、経験 (2)「知性」(Intellekt):分析・総合、認識 (3)「理性」(Vernunft):推理・判断、倫理 (4)「悟性」(Verstand):体系・包括、当為(覚醒) (各術語につけたキーワードは、再考の余地があるかも知れません。) このように配列しても、何ら不都合も矛盾も齟齬も生じません。いやむしろ、この方がすっきりすると思います。なぜなら、「知性」(Intellekt)は、広義には知的営為の総称ですが、狭義には「感覚によって得られた素材を統一して認識に至る精神機能」を指すわけですし、何より、上述のとおり「悟性」の原義は、「ねむりから醒めて気がつく、仏道の真理にめざめる」(『漢和大字典』学習研究社)ことですから。すなわち、人は、一連の認識論的営為の結果、ある種の「覚醒」に至るのでしょうから、少なくとも私は個人的にはこのような序列関係の方が一層明快である、と考えています。 命名(Nomenclature)という作業は大変な苦労を伴うようですが、外国文献の(特に、最初の)翻訳にも似たようなことが言えるでしょう。なるべく簡潔・明快でなければならないのに、内容をよく表していなければならない、という対立・背反するよう要求を同時に満たさなければならないわけですから。最初の訳語があまり適切でなくても、後世の人がそのまま使う場合がよくあります(例えば、印欧語文法用語の「直説法・接続法、現在・過去分詞」など)。そこで、我々後学者としては、その不適切な部分を埋め合わせながら理解することを余儀なくされることになるわけですね。この「悟性」(Verstand)の場合もその1つではないか、と個人的には考えています。 以上、ご回答まで。

Psychic_student
質問者

お礼

なんとなく分かりました。ありがとうございました。

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