言葉の定義だったら、ウィキペディアを検索すれば分かるのではないですか?
あるいは「カント」で検索すれば、ズラズラっと、解説が出てくると思います。
「カント」って、女性の、あそこのこと、あまり大きな声で質問しないでください、恥ずかしいから・・・・・
私なりに理解している範囲でお答えすると、古代ギリシャから、中世末期まで、哲学で、理性という言葉はよく使われたけど、感性という言葉はほとんど使われなかったし、感性の役割は無いに等しいものでした。
そして中世では、理性・ラティオよりも、インテレクタス・知性の方が優位あり、理性・ラティオはそれに比べると劣ると考えられていました。
インテレクタス・知性は神の有する無限の能力のことであり、ラティオ・理性は人間の有する有限の能力と考えられていました。
その理性は、神が人間に与えたものと考えられていました。
だから理性は神の有する能力を「分有」するものと、考えられました。
故・木田元は、理性とは「神の出店みたい」なものと言いましたが、うまい表現です。
そして近世で、理性とは別に、感性の役割を重視したのは、16世紀のフランシス・ベーコンとその実験科学の提唱であり、また18世紀のバウムガルテンの「美学」という本からでした。
それというのも、デカルトが、人間を精神と物質に分離して、感性の役割が無くなり、両者の谷間で忘れられたからです。
美というものは、感性に基づくものだったからで、そこから近代美学というものが始まったからです。
また、ベーコンの実験科学から、単に理性があれば、それは真理だというのではなく、というのも、中世とか、デカルトは理性だけあれば、真理を知ることができると言っていたのですが、ベーコンは感性で「検証」しなければ真理とは言えない、と言いました。
今の私たちも、真理といえば、感覚でそれを「検証」しなければならないと考えていますが、今ではそんなことは当たり前ですが、中世とかデカルト、スピノザ、ライプニッツではそうではありませんでした。
理性だけあればいい、そして神が人間に「生得観念」としての理性を付与したのだから、理性は明晰判明であり、経験を必要としない、真理を洞察できると考えていました。
ところがカントは、その中世以来のデカルト・スピノザ・ライプニッツの考えに対して、英国経験論のロック・ヒュームの考えを対抗させて、理性中心の、理性優位の、その考えをひっくり返し、というより、神のインテレクタス・知性と人間の理性・ラティオの優劣関係をひっくり返し、理性優位の考えを唱え、神の知性・インテレクタスを悟性と言い代えて、貶めました。
以上のように、感性・悟性・理性にはひじょうに複雑な経緯と変遷が背景にあるのです。
西欧哲学史の知識がないと簡単には言えないのです。
今では、私たちは悟性を、簡単に知性と言っています。
中世のインテレクタスでなく、単に考える能力のことを知性と言っています。
そして理性とは経験を越えた事柄を考える能力と考えられています。
また、判断力に必要なものを理性と言っています。
従って感性とは、知性と感覚の間にあり、感覚データを受容する能力であり、知性と感覚データを結合し、それを橋渡しするもの、それが感性です。
カントはそれを直観と言っていました。
その直観の「内容」が感覚データであり、「形式」が時間・空間です。
お礼
『知の歴史』(ブライアン・マギー)、『世界の思想史(上)、(下)』、『ビジュアルではじめてわかる哲学』(スティーブン・ロー)、『史上最強の哲学入門(西洋編)(東洋編)』(飲茶)などを読んだのですが、そこまで詳しい見解になれません。 『世界の思想史』は分かりやすく書いてあるけど長くて辛いです。2段で上下合わせて600ページあります。普通の本だったら1000ページぐらいありそうなやつです。たぶん読み込めば、ご回答の見解くらいになれるとは思うのですが、ちょっと時間がかかり過ぎてしまう。 お勧めの入門書とかあれば教えてほしいです。
補足
お世話になります。また質問したのでよろしくお願いします。