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「愛」をどのようにすれば発掘できますか?
「人の愛」は隠されていると思います。 もしそれが顕在的だったら、世の中はもっとよくなっているでしょう。勿論「浄土」とはいいません。ここは現世ですから。 でもこのドライで、個人的社会的利益ばかり問われ、道を歩くのでさえスピードを求められ、民主主義(多数決主義)で皆多かれ少なかれもっているはずの「愛」は隠されていると感じます。 恋人同士「愛」を感じても、それが永遠の、真実の「愛」となるわけではない。本当の「愛」とは弱いものへの配慮?人類愛?それとも幻?いえ、形を問うているのではありません。なぜ皆隠そうとするのでしょうか?皮相的には文学、歌、芸術、密接な関係等では体現できるのに、リアルに「愛」をうたうと、人によってはピエロになったり、殉死しなければならないのでしょうか? それを発掘するツールのようなものは、いかにして持てばよいのだろうか?真実を見る目を養うには、どのようにしたらよいか?同じ価値観を共有する人に出会うにはどこに行けばよいのか? …と、いつものように悩んでいます。宜しくお願いいたします。
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frauさん、関東平野部でも真っ白になって雪が舞ってる中からこんにちは!No.7のvagabond_0710です。 お礼いただき有難うございます。こちらこそ、いろんなところでfrauさんの幅広い知識のご解答で勉強させていただいております。というのも、実はよくご一緒させていただいております。そこで僕もfrauさんといろんなことで深く、そして熱く語り合ってみたいです。「エロスやタナトス」のことや、「孤独や愛」について、「人生や感性」について、「虚無感」に包まれた日本についてなど論点は多くあります。それにしても芸術家?または心理学者?興味深いです。 また失礼ですが、回答が毎回長い辺りが僕とそっくりです。(笑)それに回答内容を読んでいて、偏らないスタンスの考え方を持っていらっしゃって個人的に魅力感じるし、ほんと"熱く"語りたいです。今度お会いしませんか?(笑)frauさんの恋愛や人生経験についても詳しく知りたいし、ほんと語りたいです。 もし、僕の恋愛に関する意見にご興味を抱かれたのであれば、是非過去ログに何か出会いがあるかもしれません。 質問:迷っています (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1202707)No.4が僕です。 質問:男性に聞きます、いい女の条件て何ですか? (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1201029)No.8が僕の意見です。 質問:惰性の友達付き合い (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1190214)No.3が僕になります。 質問:恋愛に告白は必須ですか (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1175200)No.5が僕です。 質問:なかなか結婚できず、ずるずるとつきあっています (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1149511)No.2が僕です。 質問:大切さの由来?? (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1141525)No.10が僕です。 質問:「私」って誰なのでしょうか (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1123985)No.28が僕の意見です。 >今は恋愛お休み中ですから 僕も同じです。金なしのヒッキーですから。(笑) >やはり「殉死」は素敵なことだと思う 「殉死」じゃないかもしれないけど、僕はあのとき死んだ感じです。それまで築き上げてきた自分の価値観が全て崩れて、今まで信じていたのが前面拒否をしました。徹底的な自己否定。まさに絶望と混沌で意味不明でした。そのことを乗り越えてからは、脱皮した感じでスッキリなんです。もちろん問題や悩みは日々襲ってきますが、それをひとつずつ乗り越えていき、時とともにより、透明になっていく感じです。新しい価値観を得るまで彷徨としました。とにかく今まで固定観念を持っていて、自分で縛り付けていたなぁと思います。枠の中であくせくしてても、枠の外に出なきゃ意味がないというか…。話がどんどんズレていくので戻しますが、「殉死」。僕は自分を殺した。つまり自分で自分を決め付けたり、縛り付けていた自分の背中を蹴飛ばしたんです。20年以上つきあっていた自分は手強かったです。(笑)でも、なんでそうなったのかはよくわかりません。なんでよりによって、就活で人生を左右するような時に、人に恋をしたんだろう?そして、自分の魂が導くままに生きようと決意して内定を蹴った僕はどうするんだろう? No.16の回答のアースウォーカーのホームページ見ました。凄いですね!やっぱいるんですね、行動している人。理屈じゃないからこそ、感動ですよね。 >何故(Why)苦しまなければならないのか と他の質問で見てこのサイトを見つけました。よかったらご覧下さい。心理学のサイトです。 http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/iyasi/1999/naze.html >愛について ただ僕が思う真理というか愛というものは、恋愛に限らないのでは?と最近思います。恋はたまたまそれが契機になっただけであって、本当になんでもいい。フとしたきっかけが出会いとなり、奈落の底に落とされる経験になって、そこでは今まで見てなかった現実を体験するのではと思うのです。それを乗り越えたときは、なんともいえない興奮と落ち着き、そしてひとつの真実。例えば、自と他の間にボーダーラインを引いていた常識に気づき、それを超えるのではないでしょうか。ただ、生きている。息を深く吸えば体内に酸素が満たされ、外を見れば雲が流れ、鳥がとまっている。それだけです。無償の喜び。そして自分の道を一歩づつ前進していくのではないでしょうか。とでも書けば、悟りをひらいたみたいですが、しかし問題も悩みも次々にやってきます。(笑)もちろんウソではありません。フリーターのたわごとです。 愛を発掘するすべは、やはり気づくというか感じるものだと思います。知るものではないし、感じる。それも自分の魂で。求めるものでもなく、与えられるものでもない。ありのままの真実を受け入れる状態だと思います。激しく興奮し陶酔してても、自分を宇宙から眺めているような余裕・遊びがある。時間も己も忘れ、何か透明な感じなときってありませんか?生と死が激しくぶつかり合い、そのエネルギーを内に包み込み、平気で乗り越えている状態というか。 何かの宗教で、自分の運命は全部自分が選んでいて、神様が試練として与えているというような思想がありませんか?確かにそんな感じもします。絶対観というか、偶然も必然も同じ心情の裏と表にすぎないし。つまり、他人と比べる相対的価値観に振り回されず、しかしそれも内包して、平気で目の前の自分の試練をひとつづつ超えていくしかないと僕は思います。試練の小さい大きいに価値を僕は置きません。言葉って難しいですね。相手の知識や気分によって捉え方が変わるし。やっぱ、告白は直接彼女に気持ちを伝えるべきですね。(笑)言葉でなくてもいいから。 >相手は「運命の女」として扱われる 日本だと結婚する相手のことを言うようですが、僕が思う運命の人とは、自分の運命を変えるほど影響を与えた人だと思ってます。
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- zenzenzen
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量子力学が発掘ツールになるかもしれない.
お礼
最初何の意味かわからなかったのですが、他の方の回答に「量子力学の理論の確立のために」と、具体的にお答えされていましたのをみかけました。 参考になりました、ありがとうございました。
- vagabond_0710
- ベストアンサー率26% (68/257)
「質問:本当の恋愛」(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1189005)で僕が思う愛について述べています。よろしければご覧下さい。 または、 「質問:愛について」(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1168343)にも意見をよせています。 このように、自分の実体験をそのまま書いているので、僕はリアルに愛について語っていると思ってます。人が僕のことを笑おうが、バカにしようがそれは相手の自由です。ピエロでもなんでもどうぞ、です。 他にも恋愛相談や人間関係など、いろんな質問に答えていますが、全てにおいて結局ひとつのことを語っているにすぎないと最近思うようになりました。僕はそれが愛かなと思うんです。 マザーテレサの偉業のように、愛は宗教や人種などの小さい枠を超えます。また決して男女間のことではないと思います。全てに対して満たされることだと思うんです。人間である以上、誰にでも愛することは可能だと思います。でなければ真理でもなんでもないですよね。(笑) みんな盲目的に愛を求めているように見えないこともないですが、しかし愛に満たされてどうするの?とも思います。僕が思うに、愛は語ることは出来ないし、体得するしかないと思います。それは今僕の中に、みんなの中にあって気づいていないだけだと思います。愛に満たされるとは、満たされていてしかし満足しているわけではない状態だと直感的に思います。 こんな僕ですが、どうぞよろしくお願い致します。
補足
お礼が遅くなってすみません。長文のためこちらに書かせていただきます。 実は前vagabond_0710さんの「質問:本当の恋愛」を読んだことがありますが感動したのです。その恋は終わってしまったけれど、まるで今その気持ちを抱えているかのごとく熱い気持ち、空気感が伝わってきました。vagabond_0710さんとは一度恋愛について「熱く」語ってみたいと思っていました。ここにきてくださり嬉しく思います。 「映画のような」「小説のような」という表現は好きではありません。フィクションの世界は現実の反映だからです。それにまたよく言いますよね。「事実は小説よりも奇なり」と。その「フィクションの世界」ジャン・ジャック・ベネックスというフランス人の映画監督がいるのですが監督が「情熱のない愛は愛ではない」と語っていますし、あるのフランス人は「私たちフランス人はアムールについて語り、アメリカ人はドリームについて、ニッポン人は涙について語る」のだそうです。また「恋愛はアメリカでは単に「ロマンス」とか「出逢い」と呼ばれ、ニッポンでは「縁」という呼び方を好むが、フランスではがぜん「運命」であり、相手は「運命の女」として扱われる」そうなのです。まさに恋愛大国フランスの人らしい言葉ですよね。 「すべてを捨てた愛」なんて、今のイギリスのチャールズ皇太子のお祖父さんが恋人のために王位継承を捨てたというお話がありますが、それを知った以来ですよ!。規模は違えど中身は同じ。人間大人になればなるほど「守る」ものが増えすぎてしまいがちですよね。でも本当はシンプルに、余分なものを削ぎ落としたところに、それも愛と共存して生きることで十分なのではと思っています。かつての国王もそのようなことに気がついていたのでしょうか。 私にとっての「真実の恋愛」の定義は自己犠牲なんです。自分が苦しいときにも対象に配慮できる、時にその苦しみをほうっておいて、相手をケアできる。でもかつては愛が欲しくて欲しくて仕方がなかった。愛であればそれが幻であろうと気がつかず、単に抽象的な意味での愛にしがみついていた。だから「愛」によってもたくさん傷ついたのです。 でもvagabond_0710さんは決して「形」に流されていない。きちんと客観視できているから立派だと思います。私は質問で「殉死」という言葉を用いましたが、これは報われないいう意味もありますし、そのために自殺してしまうなどのことです。愛のために死ぬというのは自己満足的なこともなくはないだろうかとも思います。でもこれは先ほどの「情熱」、私のテーマである「情熱」からみれば反対方向に行くので、やはり「殉死」は素敵なことだと思うことにします(笑)。 とはいえ、あなたのように客観視できるということは、ひとつの経験をより大きな視点に昇華できるということですよね。 今回貴重な意見を聞けましたが、このような意味で個人は誰かのものであり、誰かもまた個人のために存在するのだなあと改めてしみじみ思いました。もしあなたがひとつの愛を失ったことによって殉死していたら、その貴重な資源とはならなかったでしょう。 今は「フン、なにさ、愛なんて」という気持ちですが、昔は「愛だろっ、愛。」という人でした(笑)。今は恋愛お休み中ですから。 参考になりました、ありがとうございました。
- zenzenzen
- ベストアンサー率1% (1/67)
民主主義の原理は多数決ではない. 少意見さえもすくい取ってこそ 真の民主主義といえる. 昔の日本の村の寄り合いでの 談合のような有り方. 一人の不満も出さないような 自分の持っている思いをそれぞれ 穏やかな雰囲気の中で出し合い,理解し合い 我欲に固執することなく,お互いが納得するまで 続け,物事を解決していくような有り方. 参考:日本的思想の原型 高取正男著
お礼
本当に、民主主義の実際が、>「昔の日本の村の寄り合いでの談合のような有り方」であればどんなに素晴らしいことでしょう。 私も民主主義の多数決主義は危険だと思います。数の力で結果が決まってしまうけれど、その数が圧倒的によこしまなものだったらと思うからです。しばしフィクション、ノンフィクションに限らずどこの世界でも小意見は真実、そして優しさを語り語らせているようなことに気がついたのです。なので前にここで「知性>優しさ?」と質問させていただいたしだいです。 参考になりました、ありがとうございました。
- A1200hd40
- ベストアンサー率51% (336/647)
>「人の愛」は隠されていると思います。 視点によって異なりますな。 >もしそれが顕在的だったら、世の中はもっとよくなっているでしょう。 そう言う事を苦痛に感じる人もいますので、そうも言えません。 >でもこのドライで、個人的社会的利益ばかり問われ、道を歩くのでさえスピードを求められ、民主主義(多数決主義)で皆多かれ少なかれもっているはずの「愛」は隠されていると感じます。 >道を歩くのさえ・・・云々。 それはあなたの主観で見た認識でしかありません。 この国の中でさえ、いろいろな立場での見解の相違があるでしょう。 もっと視野を広げましょう。 経済は「信」が無ければ成立し得ません。 (文字通り、「信ずる、信じ合う」ということ) 「礼」に事欠けば、集団が成り立ちません。 (「敬う、尊重する」ということ) 生きている限り、生き物は「種も含めた、自身の生存のため」に利害・欲求・欲と言う物に、意思や行動を左右されます。 (生物として、逃れられない宿命です。) 利害は、それぞれの立場で一致もし、対立もします。 (みんな、生き残り、種を存続させる事に必死です。) 人間と言うイキモノは、他の生物に有り得ないほどの、意思を持った「個」によって構成される、多数の集団において、それらを調整する手段を身につけました。 「掟・法・制度」と言う物です。 それをコントロールする上で、民主主義と法治主義は、最大多数の最大幸福のためには必要不可欠です。 民衆ひとりひとりが、「信」を託した議員による、議会が定めるところの大多数にとっての「義」(「正しさ、公正さ」)である「法」の下に、お互いがその権利を認め、許容し合い、無用の諍いを防ぐ事が出来るのならば、ここに「仁」(やさしさ)が無いと言えるのでしょうか? 人間が「イキモノ」である以上、法と社会の問題は「解の無い命題」ですが、「これを獲得するまでに流された、先人たちの多くの血」を考えると、これを軽軽しく否定すべき物では有りません。 好き勝手におおっぴらに物が言え、自らの財産を持つことが許され、国家に対して請求を行う事が出来、緊急時には救助・援助もしてくれる。 あなたが当然の物として享受している、この「有り難さ」を、どうか解かってください。 >恋人同士「愛」を感じても、それが永遠の、真実の「愛」となるわけではない。本当の「愛」とは弱いものへの配慮?人類愛?それとも幻?いえ、形を問うているのではありません。なぜ皆隠そうとするのでしょうか?皮相的には文学、歌、芸術、密接な関係等では体現できるのに、リアルに「愛」をうたうと、人によってはピエロになったり、殉死しなければならないのでしょうか? 形無い物に形を求めて必死に探しても、その姿を追うことは出来ません。 一見否定なさっていますが、固定された理想の形を求めている事には変わりがありません。 許せない状況があることを、ご自身間接的に認められています。 >なぜ皆隠そうとするのでしょうか・・・云々。 あなたが見ようとしてないだけです。 森の中の「一本の木」を頭に置いて、「森」を探している状態です。 >それを発掘するツールのようなものは、いかにして持てばよいのだろうか?真実を見る目を養うには、どのようにしたらよいか?同じ価値観を共有する人に出会うにはどこに行けばよいのか? そのような物は一切必要ありませんし、何処にも無いでしょう。 相手との「違い」を「認識」し、それを「許容」し、「お互いに認められる」なら、「狭義」の「愛(らしきもの)」は成立するかもしれません。 同じ価値観を・・・云々、所詮他人です、まったく同じ物を期待する事が、すでに間違いで不幸の元凶です。 一卵性の双生児でも、共有は難しいでしょう。 「全て」に対して、その「有り様(ありよう)を認め」、それが「存在する事を認める(受け入れる)」ことが、「糸口」には成り得るでしょうが、「永久に答えは出ない」でしょう。 「漸近曲線」のような物で、答えに到達できる物ではないでしょうね。 何にせよ、人間(イキモノ)如きに過度の期待はしない事です。 「所詮、人間(イキモノ)でしかありませんから。」 普段からそう思っていると、そのうち、うれしい意味で「あれ?」と思える事も出るでしょう。 自分自身としては、「過度の期待はしていませんが、希望を捨ててもいません。」 「為する事無く、自然に行きましょう。」
お礼
お礼が遅くなってすみません。 確かに極論的やもしれず…。でも私の主観から映る世界ですから、皆様の客観性によって訂正もしくは追加していただければ幸いと思います。 確かに私は「井の中の蛙」です。今は田舎に住んでいますが、実際対比させてみるとやはり都会は皆あくせくしている感は否めません。都会は現代の最先端が生み出されるところですし、様々な問題や病理もまた、最先端から生じるのだとも思いました。それに加え私の厭世観も加味されています。 確かに「愛」とはあまりにも抽象的なこと、顕在化ということも同様です。価値観も同様に千差万別ですから、ひとつの愛が、誰かにとって愛であるどころか傷となる要素かもしれませんよね。 ただこの国における民主主義に関しては「現実的に」は、あなたのおっしゃるように「理想通り」である、とは決していえないですよね。 >「許せない状況…」 そうですね、形あるもの(抽象的)を求めていても、具体的、つまり固定的で絶対的なものを求めているのかもしれません。「木をみて森をみない」というのはそのような意味だと解釈しています。 >「一卵性の双生児でも、共有は難しいでしょう」 これに対しては異議ありです。双子同士は似たもの同士であるという共感、共時性を持っていることは心理学で認められています。 >「所詮、人間(イキモノ)でしかありませんから」 >「普段からそう思っていると、そのうち、うれしい意味で「あれ?」と思える事も出るでしょう」 これについては同感です。期待を裏切られ「期待しない」、そのような考え方をもつに至ったとき、無期待感が裏切られたときの衝撃、ですよね。 >「過度の期待はしていませんが、希望を捨ててもいません」 いい言葉ですね。 参考になりました、ありがとうございました。
- zenzenzen
- ベストアンサー率1% (1/67)
愛(NP)は人の心に自然にあるものと言われているから 時が来れば 自性によって そこに自然といくかも. その時を楽しみに 自己の感性を大切にしてね.
お礼
いつもご回答ありがとうございます。 愛「NP」とは「自然」なのですね。交流分析では仏教のような視点もあるのですね。 時が満ちれば…そこに自然に到達できるならば、自然に流れに身を任せたいです。 >自己の感性を大切にしてね はい!(^^)/ 参考になりました、ありがとうございました。
- 岩尾 俊志(@arakan)
- ベストアンサー率43% (31/71)
まず「愛」の定義について確認しておきます。 「愛」というと多くの人は「仲良くする」「(肉体を含めて)相手を得る」 などのイメージを持ちがちです。それもある程度の段階では 言えるときもあるでしょう。 しかし本質的、根源的な愛とは「存在をあらしめる力」です。 母猿は外敵から子猿を守るために子を自分のかたわらに寄せ 歯をむいて相手を精一杯威嚇します。 人間の母親は子供を育てるために自分の食は抜いてでも 子供に 食べ物を与えようとします。 よく知られたたとえ話ですが一人の人間には父親と母親と二人の 親がいますから20代(ざっと500年)さかのぼれば100万人 さらに20代さかのぼれば1兆人の先祖がいることになります。 その先祖が次の世代を残すには、戦争などの政治的危機や 飢饉や天災などの経済的危機といった多くの苦難を乗り越え 自らの身を犠牲にしてきた無限のドラマがあるのです。 しかもそれらは「あれをすればこれがあるから」という 現世の利益のためでなく、何の見返りも求めない「無償の愛」の 積み重ねなのです。つまりこれが本質的・根源的な愛です。 (たとえばイエスが説いた「愛」はこれです) さてではそれがいかにして得られるか。そのツールはあるのか? あるとしたらそれは何か? ツールはあります。いわゆる「縁」をよりどころとすることです。 「縁」とはあなたの心の深いところに内在している「直観」のことです。 間違っても出会った相手を「この人と知り合えば自分の利益になる」 「この人と仲良くなれば自分の虚栄心が満たせる」 などの「形成されたもの=表面化・顕在化したもの」で判断 しないことです。 むしろ「この人といれば何か暖かい」「何か安らぎが得られる」 という「目に見えざるもの」をよりどころとすることです。 それを続けていれば必ず本物の出会いが訪れます。 そしてその出会いはまた次の出会いを呼びます。 心理学を真剣に(おそらく自己と他者の魂の救済という正しい 目的のために)学んでおられるあなたのことです。 多少、途中の説明を飛ばしても理解されるだろうと確信して 回答しています。
お礼
どちらかといえば「目に見えない」世界に興味が傾いているのですが、やはり生物学的な見地から述べられるとグン!と、説得力が強まります。 本当に自分のルーツを思い起こせば、自分が「私の人生」という道のりの途上にいながら、その線は過去につながり、先祖やたくさんの人々とつながっていると感じます。そしてまた皆、その道を未来に架けていくのでしょう。 神がこれでもか、これでもか、と、万物のものに試練を与えてきました。死の遺産として自分の遺伝子をコピーするのは忘れてこなかった。例えばそうですね…喩えがヘンなのですが、「訴訟社会ゆえいつでもどこでも証拠を残したがるアメリカ人」のようなものでしょうか(笑)。 「直感」についておっしゃっていますが、この「直感」というのは最近の私の課題なんです。いかにしてあまりにも多すぎる情報社会の中で狭義のことから広義のことまでを取捨選択するか、ということですが、その中でこの「直感」に頼らざるを得ないというか、最後はこれしかないと思うようになってきました(その方法についてはまたこのカテで質問させていただきたいと思っています)。 そして本当に今、「本物の出会い」に飢えています。先祖と別れてきたように、私も今生での縁(まあくされ縁でしたけれど(^^;)を絶つべきときがきたのでしょう。「暖かさ」への直感は…やはり経験で磨かれるのかな?鈍な私は失敗ばかりしてきましたが(笑)。 しっかり読ませていただきました。参考になりました、ありがとうございました。
- nejirigasi
- ベストアンサー率14% (25/172)
実際の自分の評価をわきまえた上で、少し謙虚に人と接することだと思います。 謙虚に接すれば、大概の元来攻撃的な人も調子を合わせて謙虚に接してくれます。 お互いが実際より謙虚に振舞った分の差が、人間関係の潤滑油として、 本来はやさしくなくても (ただやさしいということ自体が幻想だと思います。それぞれは本来は自分のためだけに生きている状態が自然と考えます) お互いがぎりぎりの中でやさしさを持ち寄って気持ちよくやっていけるように思います。 すなわちこれが人からも自分からも愛を引き出す方法のひとつだと思います。 愛>助け合う気持ち こんなところでいかがでしょう?
お礼
>謙虚に接すれば、大概の元来攻撃的な人も そうなんです、これは経験したことあります。不思議なんですよね、攻撃的な人は攻撃するのが好きだから、ずっと攻撃しているのかと思いがちですが。攻撃する心理というのは、自分をより大きく見せたい気持ち(または怖さ)が根本にあるかと思いますが、自分に歯向かう気持ちがないとわかれば、その攻撃力は空回りしてしまうかもしれません。「攻撃」というのは攻撃するに値となる、より大きな壁が必要とされるのかもしれません。私事ですが目的を阻む「障害」が大きければ大きいほど燃えます(笑)。 「愛>助け合う気持ち」 なんとなくわかります。これは「助け合う気持ち=親切」ということでしょうか?「親切」とは「愛」の欠片のようなイメージですが実のところどうなのでしょう。 参考になりました、ありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
loveを愛と訳すると、愛にはいろんな愛があり、この場合の愛は・・・ってなりますよね。 >皮相的には文学、歌、芸術、密接な関係等では体現できるのに、 >リアルに「愛」をうたうと、人によってはピエロになったり、 >殉死しなければならないのでしょうか? 情熱を共感できなければピエロにしか見えないと思います。 でも情熱を体験した経験があれば、他人が他人への強い愛を示すのを見たとき 共感できるので道化師どころか仲間と思えるような親近感が沸くのではないでしょうか。 >それを発掘するツールのようなものは、いかにして持てばよいのだろうか? >真実を見る目を養うには、どのようにしたらよいか? >同じ価値観を共有する人に出会うにはどこに行けばよいのか? 右脳ばかりだと情熱につっぱしりすぎて、その道が誤りであると気づいても、ブレーキがきかなくて崖から転落するかもしれません。 左脳ばかりでは愛は感じることができません。 では、右脳 左脳がバランスとれていると、強烈な情熱は持てず、愛情ももてないのかというと・・・ 私、何度か調べて右脳・左脳がちょうど同じ程度のバランスのいい(自称?笑)動きをしているらしいんです。 でも人一倍ウルウルする方です。 ドラマや映画観ると、一人だけ泣いてます。 感動的な敗者復活の映画観ても、もうウルウルです。 じゃあ感情に突っ走りやすいのかというと、詐欺にはひっかからないです。 相手が雄弁に語って巻き込もうとしているのを、心の中で「ふふふん・・・」って思って聞いて最後に「でもあなたの言うことは正しくない」って相手の言葉の矛盾をピタンコって言い当てて、相手をそれ以上何も言わせなくしちゃいます。 相手はてっきりペースに乗せられたと思っていたので、予想外な私の反応に絶句するみたい。 情熱を注ぐところってひとそれぞれ。 恐竜の骨を捜して何年も砂漠でハケでちょっとずつ掘っている人もいるし、人類救済と全財産を捨て宗教に入信する人もいるし。 自分の情熱へのキーワードというか鍵は何なのかは、それが目の前に出現したときにしかわからないと思う。 そして心の鍵を差し込んで合えば、それが自分の愛だったってことだし、無理やりはめ込んでその時は合ったと思っても、実際は微妙に違っていたら、やがて偽りの情熱は冷めていくと思います。 わたしはこれが好きってものであれば、他人の意見は馬耳東風。 人に迷惑かけなければ情熱を注いでいいと思いますです。 どうやって出会うのか? 探して出会えるものなら探せばみつかるでしょうし、探しても見つからなければそこには無いんじゃないかと思います。 青い鳥のように時が来ないと見えないものかもしれませぬ~。 人間ができることは限られています。 もしかしたら一つしかないかもしれない。 それは自分に満足すること。 自分の人生に満足して消滅すること。 それは裕福だったとか幸運だったとかそういうことじゃないと思います。 人に恵まれいたとか、毎日笑っていたとか そういうことじゃないと思います。 闇の中のわずかな光があれば、その光はとても強く輝く。 光の中では光は輝きません。 と哲学的な事を言ってしまいましたが、これはあくまで私の期待というか希望であり、まだ人生終わりに近づいていないので、終わりの頃 この私が言ったことが正しかったのか、若気の至りだったのか判明すると思います。
お礼
>右脳・左脳がちょうど同じ程度のバランスのいい 素晴らしいじゃないですか!「中庸」ですね。人をつかさどる脳という指令部が仲良くなさっている。どちらにブレることもなく「安定」している、心地よい風を送る「1/fのゆらぎ」のようですね(笑)。 余談です。一説にイエス様は男性的なもの、女性的なもの(ユングがいうアニマ・アニムス)のバランスがとれれているから性欲がないというのがあります。中庸ですね。哲学と宗教がそれほど違わないということがこうしたことにみられるのではないでしょうか? >人一倍ウルウルする方 同じです(笑)。 詐欺に引っかからない話の「騙されているふうを装って、引きつけて、最後に突っ込む」。それ、恋愛テクにも使えますよ♪ おお「情熱」!。夏目漱石の「草枕」の「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ」という有名な一節がありますが、これはもう格言ですよね。この質問はこの格言のことと同義語なんです。「智」も「情」も「意地」も、私にとっては情熱と同じことで、そのパッションの力強さがときに時代や文化を変える力になるし、でも方法しだいで身を滅ぼすことにもなる。個人的には愛という灼熱の情熱に身を焦がして死にたいなあんて思うのですが(笑わないでね)、この時代は、とかくそういう人や減少に対して冷笑的な気がします。もっとも「情熱」なんて言葉はもう死語?TBS11時台の「情熱大陸」でしかみかけない(笑)。 >光の中では光は輝きません。 なるほど!いい言葉ですね。 ではそろそろ「青い鳥」を探しに出かけましょうか。 参考になりました、ありがとうございました。
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お礼
巷では仕事をとるか、愛をとるかは恋愛にとっての課題のひとつになっていますね。「愛かプライド」かというテーマの名前がついています。さて、あなたは「愛というプライド」を選択したのですよね。あなた自身のひとつの力によって対象あっての愛は救われ同時にあなた自身の愛も、すべてのプライドも堕ちることなかった。それが素晴らしいと思います。このような結果とならしめるのはやはり「意思の力」によるのだと思うのです。私はどちらかというと人間嫌いなのですが、人間が最も人間らしくそれは皮肉ではなく純粋に感嘆するのはこのような力です。それは「理性」とも違うと思います。 ワーン、やっぱりまた長くなってしまいました(謝謝)。いい加減にしますね。ご紹介いただいた過去ログはこれからゆるりと読ませていただくことにして…。同志よ、とりあえずお礼まで!
補足
お礼が長くなってしまったのでここからお読みください(笑)。 再登場ありがとうございます。また、お褒め頂いて嬉しいです。 >芸術家?または心理学者? とんでもないです。今通信制の大学の心理学徒ですが、まだひよっ子です。ただ「芸術家的」とは言われてきましたけれど、自分曰く「中途半端な芸術家」は生きるのが難儀です(笑)。 さて、また熱いメッセージで私もノッてきました。 >悟りをひらいたみたいですが いえいえ、vagabond_0710さんは悟っているのではないでしょうか?「>奈落の底に落とされる経験」をしたのでしょう?そもそも悟りとは個人的感覚に尽きると思います。偉人賢人が古代より悟りについて語ってきましたが、悟りとは言葉では表せられない感覚によるのではないでしょうか。悟りとは何か?とは言葉によって語ることができますが、実際それを経験するとなると、経験した人しかわかりません。でもそれを言葉にする術を持たないのならば、体感に尽きますし、言葉にするのは不可能なのではないでしょうか。ですからそれに代わる「感覚」があるのだと思います。 巷にはそれに近づこうと麻薬を用いる人もいますが、これは疑似体験だと思います。実際、ランナーズハイなどのナチュラルハイで放出される脳内物質は麻薬物質の何百倍もの快楽物質が出るそうです。それは副作用などはありません。「疑似体験」によるエクスタシーはその罰として禁断症状があるのでしょう。つまり物質に溺れたゆえの天国と地獄でしょう。「低レベルの悟り」、いや「悟りごっこ」ですね。 古代より偉人賢人の方々は「悟り」について考えてきました。私たちは先祖からいただく遺伝子のリンクによって肉体を持ちえますが、同時にそのような理性や意思の力、それへの思想も遺伝子の中に組み込まれてきたのだと思います。つまるところ、神にしか真実はわかりませんが、たとえそれが疑似体験であろうと、その体感(透明感)は、あなたにとって私にとって真実なのです。ではそれを何と称したらよいのか??「悟り」というべきしか既存の言葉では見あたりません。それでよいのだと思います。変に恥じることもなし、謙虚になるものでもなし。人は生きることを問い続けずにいられないのですから、「生きる実感」を体感したことに感謝だけすればよいのだと思います。その感覚に主観的でいながらも、問い続けることの姿勢は謙虚でいる、それが神に通じる近道かと思います。 苦痛が快楽と表裏なように、苦痛による「落ちる感覚」は快楽の「落ちる感覚」と、動機は違うが「行くべきところ」は同じだと思うのです。快楽と苦痛の道は違えど、その果てで落ち合う道は一つである、つまり感じる体感、また得たもの(悟り)は同じものであると思うのです。表裏一体とは画威厳として分離しながらも行き着く先は同じこと、つまりその二項対立自体、ひとつ(one)だと思うのです。 私も「無色透明感」を大切に大切にしております。その感覚とは例えば荒涼とした大地に立っているけれど、何故か苦しくも寂しくもない、温かく同時に涼しいのです。孤独やフワフワとした幸福に飢えた毎日による虚無感は日々感じるけれど、「その瞬間」はとても満たされていると感じる。でもそれはずっと続くものではなく、それがまた来るまで待たなければならない…。あたしはマゾかもしれない(笑)。 さて、現実的に話を戻しまして、私は今結婚についても執着はありません。「紙切れ一枚」とは厭世的に言っているのではなしに本当のことだと思います。結婚だけではなく「愛」のために「しがらみ」は日常茶万事ではないですか。でも幸福を追求するとしがらみも付録としてくっついてくる。 理想の結婚的生活、というか生活の中の結婚、というか良きパートナー探しというのは、例えばおばあちゃんになって男性の茶飲み友達ができれば、毎日縁側でお茶してるような仲になる。ハタからみれば「何十年連れ添った夫婦」のように見えるでしょう。そうしたらしめたものです。「戸籍」というIDを作ればいい。もっとも行政によって戸籍が管理され始めてから結婚によるIDも、私にとっては益々地に堕ちたものになりましたけれどね。結婚のための結婚ではなく、自然に成立した「つがい」関係がいいですね。