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英語にも落語のようなものがあるのですか?
日本の落語家が海外公演を行ったという記事を読んだことがありますが,日本の落語のような形の娯楽というか文化は英語を母語とする人達の間ではあまり発達しなかったのでしょうか?叉そうだとしたらその理由は何でしょう。
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Gです。 補足質問を読ませてもらいました. >落語におけるノウハウというのはどういうことになるでしょうか これはいわゆる「芸」といわれる要素でセ章ね。 登場人物のキャラクターを演じる技術(顔つき、ジェスチャーも含む)、言葉の使い方(イントネーション、訛り、タイミング、間など)、そして何がお客を楽しませる事ができるか熟知している事もノウハウの大きなものと思います。 最後の落ちに持っていくときの10-15秒を一気に喋りまくるのも特徴のひとつかもしれませんね。 これらの要素が落語家の上手さでもあるし、それ自体が落語という物ではないでしょうか。 今流行りの漫才の多くが体を大げさに或いは「誇張的なジェスチャー」で笑わせていますね。 動きのない漫才はありえませんね。 座ったままで話す落語には、この漫才の「体の動き」で笑わせる要素ははほとんど入っていませんね。 古典落語などは、それぞれの落語家の個性はあるものの言う文章は誰がしゃべっても同じわけですから「話芸」のレベルを高めるしかないわけですね。 磨きをかけられる要素がここにもあると思います。 それら一般人にはなかなかできない物です。 それを「芸術」のレベルまで持ち上げたのが落語であり、日本の伝統芸術といってもいいと思います。 (実はこういわれるまでただ今まで楽しんできただけの私ですが) 私は落語を300話ほどmp3形式で持っています。 ボイスですのでかなり音質を落としても問題ないので、一枚のCDに100近く入れて車の中で聞いています。 English Rakugoも2つほど持っていますが、発音はしかたないにしろ、英語で落語でおもしろさを引き出すノウハウは学校英語の優等生にはとてもできる事ではないと思います。 英語の部分で観客からどぉっと笑いが飛ぶという事は、それすなわちその場面のフィーリングがクリアーに伝わっているという事になります。 それこそ、英語という言葉を使ってフィーリングを作り出しているその技術は発音がおかしいと批判し見下げる事のできる物ではないと思います。 これはすなわちフィーリング英語の観念がなぜ英語の勉強に「必要」なのか、はっきり証明している物だともいえると思います。 ではまた、
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- aton
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「話を人前で語る職業」としては,中世の吟遊詩人が, 「笑話を語る文化」としては,(英語圏ではありませんが)ロシアのアネクドートが, 「人前で一人で行う芸」としては,スタンダップ・コメディやパントマイムのような一人芝居が, それぞれ似ているかな,と思うのですが,これら全てを兼ね備えた落語に類する話芸はやはり無いように思われます。 「理由」については良く分かりません。ただ,単に言語のみに留まらない,文化的側面の考察が必要かと思います。 草創期のTV人で,日本の笑芸の研究者?としては第一人者であると思われ,海外の笑芸にも詳しい小林信彦氏あたりが,これに関する考察を発表していないでしょうか?
お礼
ご回答有難うございます。ご示唆のことは私も心がけて探してみたいと思います。
一部の噺家がまじめに海外公演に取り組み始めてからかれこれ10年くらいになるでしょうか。自殺した桂枝雀師匠が、いちばん「外人にも通じる落語」に取り組んでいた草分けでありましたが、いまでは某大学の女先生と組んで若手の落語家たちがたびたび海外に繰り出し、「英語で」落語の世界を紹介したりしています。 さて、「落語のような」娯楽というと主観的になってしまうので、回答者ごとに「日本だけだ」、「いや英語圏にも standup comedy があるぞ」と回答が分かれてしまうはずです。しかし、英語圏でも娯楽の一部をになっている standup comedy と「落語」には、大きな違いがあります。 なぜ、「落語のような形の娯楽というか文化が英語を母語とする人達の間ではあまり発達しなかった」かという疑問に解答を見出すには、この「違い」をおさえておかなくてはいけません。 もちろん落語は日本が誇る話芸です。その歴史もかれこれ300年以上(人によっては400年近くという人も)になります。そして一番の違いは、「一人で何人もの人物を演じ、まったくの別世界をたったひとりで観客の前に創り出してしまう」ということにつきるでしょう。演じる人物は「八っつあん、熊さん」の2人から、10人近くになる場合があります。それも、ただ台詞をしゃべっているだけではありません。名人級の噺家は、自分の芸の中にきちんと人物の区別を作り出しているのです。 いままで一番印象に残っている芸は、亡くなった先代林家正蔵師匠の話で、「うそをついているようで本当のことを話している、ようなふりをしてホントはうそをついている、ようなふりをしてホントは本当のことを喋っている」という人物を見事に演じた落語でした。これは、繊細で控えめで微妙なことが大好きな日本人だから感じ取れる芸であって、英語なんぞを母国語にしている人たちには分かるわけがありません。なんつったって、すべてを言葉にしてこそ世の中が成り立つ、と考えてきた人たちですから。 さらに standup comedy との明確な違いは standup comedy が sit com 同様、シチュエーションや言葉のやりとりを主眼にしているのに対して、落語の場合は言葉のやり取りのあいだに存在する「沈黙」、噺家の世界では「間(マ)」と言いますが、が大きな役割を果たしており、客を笑わせながらも人間の業(ゴウ)、仏教的に言い表せば「カルマ」を観客に突きつけることを主眼にした芸術であるということでしょうか。 簡単にご質問にお答えしましたが、あくまで私見です。あしからず。
お礼
大変含蓄のあるご回答をいただき、ありがとうございました。英語にしても日本語にしても,夫々を母語(敢えて国語と言わないで)としていることの一得一失を認め合って交流することがよいのではないかと思いました。
- Ganbatteruyo
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Gです. kaitaradouさん、こんにちは! そうですね、こちらには落語のような物はありませんね。 日本の一人漫談がこちらのstand-up comedyが近いものになりますね。 "Osamurai-san,osamurai-san"で知る人ぞ知る桂枝雀氏の宿屋仇というEnglish Rakugoがありますが、これは90%英語でしゃべります。 日本語に訳しにくいと思われる所は日本語を混ぜていますが、なかなかのものでよ。 これは日本にいる外人さんにも落語の面白い所を分かってもらおうとする努力だと私は見ます。 日本の芸・文化と言われるものの多くは格式を作り上げ「不変な物」として生きてきました。 この不変な物があるからこそ、それを超越した人が「達人」「師匠」「宗家」として「弟子」を「不平等さ」を無視する事ができ更に「継承」する事ができる社会が作られたわけですね。 ですからその超越したものが「玄人芸」と認められ、その格式の枠の中のものを磨いていく事ができたわけですね。 つまり決められたとおりの事をどれだけ芸として認められるか、と言うことに芸術として、話芸として成立していったと私は思います。 人間だけができるといわれる「笑い」がまた話芸を楽しめる環境でもあったと思います。 落語の素となる「おち」がすう個所既に深まれてそのどこでも話におちをつけることができるわけでそこへ持っていくまで楽しませ落ちで最後の「笑い」を持たせる事が、結局、ああ面白かった、と言うフィーリングを何時までも聞く人に残していくわけで、近年の創作落語にしろ漫談落語にしろ、しっかり根強く残る世界を落語は作っていると思います。 落ちが何度聞いても面白いのはそれだけ「不変」の中で磨きに磨きをかけた落ちであり話芸のプロだと言う事でもあると思います。 この「不変な物」を「不平等」ともいえる社会の存在を認める環境が日本にはあったという事だとも思います。 そしてそれが欧米にはなかったということが今落語らしき物が欧米には存在しなかったと言う事なのではないでしょうか。 しかし歴史的に特異的な物とされるものの中でひとつだけ例外があります。 それが日本の武道なんですね。 師匠(師範)としての「絶対なる権力」を認める日本の武道が欧米に広まったと言う事は日本文化の神秘さを求めると言う理由もあるとは思いますが、人より少しでも強い実力(少なくとも資格を持つように)なりたい、そしてそうなる事で「非民主的」な地位を実感できる事が欧米で日本文化の中で最大とも言える「輸出」ができた私は信じます。 しかしながらその「強い」実力がなければ師匠として非民主的に認められない現実的な面があるアメリカでは「資格・肩書きに甘えてきた」日本人師範では「継承」と言う部分が実現しない事になるわけです。 ちょっと横道にそれた感もありますが、こちら側から見た印象を書かせてもらいました。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
補足
日本人は伝統という言葉をノウハウというカタカナ語とむしろ反対のような意味で使っている様にも思えますが,落語におけるノウハウというのはどういうことになるでしょうか。
二つの相違するものがある場合、一方から他方を論じるより、よりどちらに特異性があるかを論じた方がわかりやすいと思います。 落語のような娯楽はないのが一般的で、落語のある日本文化に特異性があるのではないでしょうか。 歌舞伎・能・狂言・落語・相撲などなど日本古来の伝統芸能には女性が登場しません。歌舞伎は女性役者も当初はいたのですが、古今東西を問わず、スーパースターが現れて、将軍様・天皇様をしのぐ人気になりました。 また、色気のある舞台演技も横行。これでは江戸幕府が黙っているわけはありません。ただちに女性役者を禁止。しかたなく、男が女形として舞台に上がったのです。人形に変わった物は人形浄瑠璃となりました。 お笑いについても、男女のお笑い芸はあったでしょうが、女性を禁止すると、男が代用せねばなりません。それで、男の一人語りが定着したのではないでしょうか。
お礼
落語というのはバカ騒ぎとかワルふざけとは少し違う面もありそうなので,ご回答は大変ためになるものでした。ありがとうございました。
- ismael
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古典落語のように同じ話を世代が変わっても引き継いでいく形式の一人話芸はありませんがstand-up commedyという一人話芸は存在します。この形式は英語圏のみならずフランス語圏でも存在します。 アメリカの有名なstand-up comedianを映画化したのが『レニー・ブルース』という映画です。
お礼
どうもありがとうございます。話し言葉が優勢な言語文化では古典的なものがかえってできにくいというようなことがあるのでしょうか?日本の落語は読み物としても定着しているようですので・・・
- Reffy
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笑いを愉しむといえば、一時期はやったMr.Beanのような面白いものはありますが、口頭だけで……というのはあまり聞いたことがありません。言葉の表情がより深い日本語の特徴を利用した芸術だと思うので、いまもないような気がします。 早口言葉や詩文として韻を踏んだようなものには長い歴史がありますが……。 あれば私も聞いてみたいです。
お礼
ご回答をいただき,かえって不思議な感じが強くなりました。オペラのようなものがあるのだからあってもよいのではないかと思いますが・・・
お礼
興味深い補足までいただき有難うございました。ほかの方のご回答ご教示も実にためになりました。改めて皆様にもこの場をお借りしてお礼申し上げます。