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真理、普遍性の追求
なぜ人間は、「真理」や「普遍性」といわれるものを追い求めるのでしょうか? もちろん、追い求める態度の「深遠さ」は個々に異なると思いますが。 「幸せ感」「充足感」「安心感」「心の安定」を得るためでしょうか? 「真理」や「普遍性」をつかんだとして、日々の生活にどのように関係があるのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
たとえば、あなたが何かの事情で猛烈な匂いの立ち込める 洞窟に閉じ込められたと考えてみてください。 その時あなたは必死に出口を探すでしょうし、それが出来なければ せめてきれいな空気の吸える穴を探そうとするでしょう。 真理を探求するのもそれと同じです。 何かのきっかけであなたが、「苦しみ」の中に追い込まれたならば、 「この状態は何かおかしい」 「出口はないだろうか」 「この苦しみの原因は何だろうか」 ということを必死になって探そうとするでしょう。 真理を求める意味とは、そういうことです。 消極的に言えば、「苦しみの解消」 積極的に言えば、「魂の自由の獲得」 こういうことになります。 したがって日常の生活に特に苦しみの原因が ない、または特にそれを感じない場合は真理を 求める必要はありません。 歯が痛くなければ歯医者の必要も感じないのと 同じことです。
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- teppyon
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そこに山があるから、登山家が山を登るように、 そこに問いがあるから、考える人は、考えるのではないでしょうか。 真理を知りたいという人は、真理を知るために真理について考えるであろうけれども、真理を追い求めることによって幸福感を得たいという人は、真理を追い求めるのではなく、幸福感を追い求めているのではないでしょうか。 哲学は、Philosophy(Philo:愛 sophy:知)、つまり知へのエロースに他なりません。故に、なぜ真理を追い求めるのか、という問いは、なぜ愛するのか、という問いとほとんど同義だと私は思います。
お礼
有難うございます。「真理追究」→「追求すること自体での幸福感」→「自分が存在していることの確認(実感)・心の安定」というようなことでしょうか。
- decidrophob
- ベストアンサー率38% (26/67)
まあ、一言で言えば、 「パターン認識による学習の欲求の延長である。」 と言えるでしょう。 まさしく、 普通の生きていくための情報収集との違いは、 質問者さんがおっしゃる「深遠さ」の度合いの違いに過ぎません。 動物によって、 過去の経験から抽出するパターンの洗練の度合いはずいぶんと異なると思いますが、 人間の場合は、かなり大脳新皮質の積極的な活用、 一見すると混沌と思える過去の経験の中から、 現在直面する意思決定課題に役立つパターンを抽出する能力にかなり優れていると思います。 そして、パターンが普遍的であればあるほど、 適用範囲が広いのです。 この知的判断の汎用性こそが、 人類が多様な環境に適応してきた最大の理由とでも言えるでしょう。 つまり、個別知識ばかりを追求していると、 未知の環境に遭遇したときにまったく対応できなくなる危険性があるのです。 だから、できる限り、個別環境によらない因果モデルによって世界を理解しようとするのではないでしょうか? 真理や普遍性ならば、まだ多少は「日々の生活(これであなたがなにを意味するかにもよりますが)」には係あるかもしれませんが、 ゲームなどは、直接はまったく無益です。 にもかかわらず、人はゲームを好む。 それだけ、大脳新皮質が肥大化し、 一見無駄なことに対しても知的好奇心を持つことが、 かりに多くの場合無駄であっても、 長い眼で見れば、未知の環境に対する適応力という観点から、実り多いことを、 人間の進化が教えてくれているといえるのではないでしょうか?
お礼
有難うございます。大変参考になりました。 特に「未知の環境に対する適応力」を習得するために、「個別環境によらない因果モデルによって世界を理解しようとする」という部分は、明快ですんなり受け入れることができます。
- kansai_daisuki
- ベストアンサー率27% (23/84)
追い求めるのは真理や普遍性だけではなく、「追い求めることが出来るものであればなんでも」、と言った方が、より正確ではないでしょうか? ここで、その何かを追い求めるということは、「生存競争であるから」ということではないでしょうか? 現在でも勉強したくない人や働きたくない人、また、運動したくない人、演奏したくない人、更には遊ぶ以外(もしかすると遊ぶことも含めて)何一つやりたくない人などなど、それらを追い求めたくない人も多く居ます。 では追い求める人は何が、好きなのか? 他の人よりも優位性を持ちたいから、もしくは生活の糧を得るために、そうしなくては生きていけないから。と言うことですね。 研究所に居る方や、根っから勉強好きである方々でさえ、勉強することが生存競争上不利になるのであれば、しない方は多いですよ。 これは、ミクロとマクロの視点で、以下に例えてみます。 【マクロ的視点】 「社会的には、いい大学に進むと生活に有利になる可能性がより確実になる傾向がある。」 【ミクロ的視点】 「うちの学校のうちのクラスの人間は、勉強する人を冷やかす。」 ▼ 以上を踏まえると、ミクロ的には勉強することは不利であるため、勉強するそぶりは見せないが、マクロ的には勉強すると大きな報酬が得られる可能性が高いので、勉強する必要がある。ゆえに、クラスメートに知られないように勉強する。 ▲ これが、人間活動の中で優位に立つためのベストな判断ですよね。即ち、全ての思考や言動などの全ては生存競争でありえますね。
補足
有難う御座います。 確かに、『他との競争』『他との比較』で優位に立ち、『生存しつづける』という部分は大きいと思います。 しかし一方、それとは別に、一見競争には負けているように見えるが、その競争自体にはあまり価値をおかず、ひたすら『自分の理想・心の安定』を追い求めるという生き方もあるように感じます。
- chikyuujinn
- ベストアンサー率14% (4/28)
「真理」や「普遍性」とは、具体的には、人間の生命活動を、最低限維持する為の「究極の知恵」の代名詞であり、「真理」も「普遍性」も理想「概念」であることに注意しましょう。 具体的に必要な探究すべき事柄は、結局人間は努力しなければ、心底からの達成感が無いという事実でしょう。 これを、具体的な体験として取得することが、学問やスポーツといった、ある意味では、人の一生の代替行為の本質なのかも知れません。 本当に「くやしい」とか「悲しい」とか、このような思いを体験することが、自己認識の発端となり、向上心が生まれ、その人は先ず精神的に充足した状況を志向し、そのうち、何にでも「やる気」が出るようになります。 「その人なりの究極の知恵」を発揮できる職業を追及することなども「自己の真理」の発掘であり、人それぞれ、自分が何をしたいのかは、最初から解っているのです。 特別な「真理」や「普遍性」が必要なのではなく、「その人なりの「究極の知恵」を求める意欲こそ、その人に必要な「真理」と「普遍性」なのでしょうね。 直接的な議論でなくて、申し訳ありません。しかし、抽象概念のままの議論では、何の進展も望めないと考えました。 人は皆、最初から「自己の真理」を持って生まれてきたと考えてみて、何の問題も無いと思います。 これこそが「普遍的真理」であり、「悟る」ということなのでしょう。「悟る」とは、「天命を知る」ことだと私は思います。
お礼
有難う御座います。 『人は皆、最初から「自己の真理」を持って生まれてきたと』言う部分には勇気付けられます。
- kansai_daisuki
- ベストアンサー率27% (23/84)
はじめまして。 哲学についての余談ですが、日本の大学で「理学部」と呼ばれるものは本来海外には存在しません。海外では「philosophy(哲学)」と呼ばれる学部を日本語に訳した際に「理学部」と訳されたそうですよ。 また、理学部の中で生業(なりわい:産業)になりそうなものは、工学部等の他の学部に異動することがあります。(工学=工業、農学=農業、医学=医業などなど。) 立派に、追求できた「真理」を活用して産業になっていますよね。解明された「真理」を組み合わせることによって、こんなにも複雑(高度)な社会が形成できたのです。こうしてみると、「真理」を追うことが社会にとって有益なことが”多い”のは明らかです。 (犯罪に使用してはいけませんよ!) もちろん、産業にするためだけではなくても、文系でも経済や法律や歴史などの基になります。また、ヒーリングや文学作品など、それ以外の人の心を満たす事もできます。 その他でも、例えば、音楽にも心理などに関わる「真理」があるかもしれません。解明されれば、新たなる活用の道が開けるでしょう。 そうそう、例えば、”PCを活用している”あなたも「真理」を追究した結果の素晴らしさを享受していますよね。 ※今は、会社の昼休みであるため、 これ以上は深く語る時間がありませんが、ご容赦を。 (^^;
お礼
ありがとうございます。 「自分の安心感・心の安定」を得るための追求も、もっと科学的に進めなければならないのかもしれませんね。
- sinfonia
- ベストアンサー率42% (53/124)
「真理」「普遍性」について、哲学が出してきた答えを哲学史的に 振り返りながらザッと説明致します。 哲学における難問やパラドクスの源泉には大きく分けて2つの謎が あります。1つは「存在の謎」、2つ目は「言語の謎」です。 mahasate氏の仰る「真理」「普遍性」の問題は1つ目の存在の謎に 関わる哲学的な問いでした。 なぜ追い求めるのかとのことですが、手短に説明致しますと… 人はなぜ生まれてきたのか、世界はどのようにして生まれたのか、という“存在の問い”は人間が自己意識を持ち始めると 同時に現れたと考えられています。 その証拠が各世界の宗教神話であるとされ、ペルシャ神話の光と闇 の二元論、インドの輪廻思想、ユダヤ教の創世記などがあります。 これら古代の民族宗教に固有の「物語」は全て、世界はどのように して生まれ、死んだらどうなる…といった存在の謎に対する何らか の答えになっているのです。 つまり、人は大昔から「存在の不安」を持っていて、「普遍的な 答え」・「真理」といった一定の形を与えられないでは居られな かった、というのが現在の哲学における一般的な回答です。 mahasate氏の言う「安心感」や「心の安定」といったところは非常 に的を射た回答です(納得しにくいかもしれませんが )。 そして、日々の生活にどのように関係があるのか、ということです が、これに関わる回答を示した一人にカントが居ます。 「純粋理性批判」で彼は、人は「存在の謎」に対する答えをとこと んまで考えてしまう生き物である、と説明します。その問いに対し て、「完全性」「完結性」「総体性」にまで行き着こうとする本性 を持つのが人であると。 生活に関係する、しないに関わらず、人はそうした「たまたまそう である」、といったことに明確な答えを求めがちです。またこのよ うな問いに答えようとしてきたのが哲学の一側面とも言えます。 長々とすみません。以下参考著書URLです。
お礼
有難うございます。 「完全性」「完結性」「総体性」。なるほどですね。 確かに、私にも「全体を把握した上で、個別の行動に出たい」という意識は、かなり強くあります。
近代の哲学では、真理や普遍性を求めるということが、おかしい。と考えられているものと推測します。 なんで、真理や普遍性にとらわれなければならないのか。そっちに疑問がいったわけです。 さぁ、腹が減った。どいつを食おうか、どれも手ごわいな。ああ、むりかもしれない。いや、むしろ無理だろう。そもそも、俺が腹が減っているから(無知だから)といって、なぜ食べなきゃならんのよ(真理を会得しなければならないのか)、そういうことです。 逆ギレです。 真理に飢えているからではない、真理に飢えさせられているのだ、そういうニヒルな考えが、自由を生むか生まないかの瀬戸際に現れているのではないでしょうか。 真理にとらわれなくなり、真理を選択できる立場を得て、はじめて、真理と向き合えるのではないでしょうか。 飢えに従うか否かを選択できるようになってはじめて、飢えを見つめなおせるのではないでしょうか。開き直り?覚悟?いちやんぴ(一番初めに前提を取り除くこと)? 自由をもって取り組めということです。 つまり、真理に上手を取られていては、いつまでたってもやられっぱなしです。 真理と並んではじめて、真理は追求していて楽しくなる。 真理をつかんだとしたら、日常生活はつまらなくなる?かもしれません。変わらないかも。消えてなくなるかも。 なぜ人は真理や普遍性を追い求めるのか? それは、真理や普遍性というものに踊らされているからです。 PS真理や普遍性を追い求めると、日常生活においては、より向上すると思われます。 人間性も高くなるでしょう。踊らされて、気づけばずいぶん高いところにくる。しかし真理は相変わらず、雲に隠れた星のようである。だが彼はずいぶん納得する。 彼の下には、多くの人々や生き物たちが見えるから。 それは、真理というものが、彼にとって、そういうものだったからです。 自分で真理を再生しながら、それを追っていたということになるのかな?真理や普遍性を作ったというか。 それも、結構はめられてますけど。
お礼
ありがとうございます。 「真理・普遍性の追究」自体が、目前に「人為的にぶら下げられた」ものということですね。さらに考えてみます。
- junsato
- ベストアンサー率12% (84/657)
今生きている人間は誰でもいつか死ぬわけで、死んだらどこへ行くのかは誰にも分からない。 よって、死ぬまでご指摘の答えを求め続けることが「真理」や「普遍性」といわれるものを追い求める原点であると、 日々精神活動を続けている一人の人間である私としては、そう考えたいと思っています。 宗教の考え方と似てると思います。 信仰を持った人は「幸せ感」「充足感」「安心感」「心の安定」を得ることが出来ると思います。
お礼
ありがとうございます。 「宗教」との関わりも、考えてみたいと思います。
- apple-man
- ベストアンサー率31% (923/2913)
人間が他の動物と違うところは、歴史を記録 できること。生物としての機能としては 複雑な長期記憶が可能なことです。 タコなど頭のいいほうですが、記憶の 持続は3日程度。魚はもっと短い。 だから仲間が捕まってもすぐにそれを 忘れるので、自分も人間に捕まってしまう。 複雑な長期記憶が可能なため、 変化と自分の記憶の比較を 行うということを、 自然に日々やっているんです。 生まれて数ヶ月の赤ちゃんに おもちゃを見せると、それを 見つめることがあります。 存在を認識しているんです。 でもそれを隠しても何の 反応もありません。 でも1歳くらいの赤ちゃんに 同じことをすると、隠しても どこかにあるはずだと探し はじめます。 長期記憶が可能になったんで、 見えなくなってもそれが どこかにあるはずだという 考えが浮かぶからです。 大げさな表現ですが、 おもちゃは変わらず存在して いるはずだという、普遍性の 追求が始まっているわけです。 おもちゃが見つかるまで あかちゃんは探しまわります。 見つからないと泣き出すあかちゃんも います。不安の始まりですね。 >「真理」や「普遍性」をつかんだとして、日々の生活にどのように関係があるのでしょうか? 大人の心理はあかちゃんより複雑な はずですが、記憶から来る好奇心の 満足、不安の払拭という動機は変わらない ものと思います。 簡単に言うと日々の生活から 不安を取り除きたいということ でしょう。
補足
ご回答ありがとうございます。 PCの不調でログインが出来ず、1週間も経ってしまいました。 「記憶」「時間」という切り口で、興味深いご回答をいただきました。確かに、時間的認識が短い場合「瞬間」の満足や不安で済んでしまい、次の「瞬間」には「素の状態」に戻っているということですね。 そうした場合でも「新たな満足、不安の払拭」が発生するのでしょう。(「学習の積み重ね」はおろそかになりますが・・) 私の最大の疑問は、その「素の状態」ですでにある「満足の追及、不安の払拭」というものが、その人の存在にどう関わっているかです。 言い換えれば「真理・普遍性の追求」は動物としての人間、そして精神活動を伴う人間の「存在」に必要不可欠のものか、ということです。 例えば、「よくものを考えた方が、生き長らえる確率が大きい」などの経験を、いわゆる「進化」の途上で経験してきたのでしょうか?
補足
ありがとうございます。 例で挙げていらっしゃる「歯が痛い状態」とは、精神的に「苦しい状態」「現状に不満のある状態」「なんか違和感がある状態」ということと理解します。 そして、それは「自分が理想とする、自分の状態」と比較した場合のことになると思いますが、この「自分が理想とする、自分の状態=自分の真理・普遍性?」自体はどこから来るのでしょうか?