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プラスになる、損になる

自分をどう生きていくか、今、どうすべきか、という時、「それをすることで、あたなのプラスになるの?」とか「そう考えることは、損ではありませんか」といったアドバイスを最近、よく受けます。 けれども、わたしは、この、プラスになるか、マイナスになるか、損か得か、といった考え方が、わからないんです。 いつも「こうせざるを得ない」とか「こうすべきだ」という考え方で生きてきたように思います(根拠は 「そう感じる」から。 幼稚園はカトリックでしたから、その刷り込みはあるかもしれません。ソクラテスとプラトンも好きです。 仏陀も、老子も荘子も。自然崇拝も好きです。 プラスになる、損になる、という考え方はどこから広まってきたのですか?

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  • kobe-kun
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回答No.6

> この、プラスになるか、マイナスになるか、損か得か、といった考え方が、わからないんです。 ものごとを、自己に取って「損得」のみで考える習慣は、【 利 】を価値観の中心にすえた考え方と言えますが、 あなたの場合は、両親の考え方や周囲の環境などから、そう言う考え方に育たなかったと言うことなのでしょう。 > いつも「こうせざるを得ない」とか「こうすべきだ」という考え方で生きてきたように思います 『 こうすべきだ 』と考える習慣は、結論的に言えば【 善 】を中心にすえた考え方、と言うことになりますが、 < 国や人類全体 >を考慮に入れた場合に出てくる考え方になるので、自己中心な「損得」のみの考え方より、 格段にすばらしい、「高度な人格(思考習慣)」と言えるのではないでしょうか。 もし、そう言う思考習慣が、知らず知らずに身に付いていたのだとすれば、「両親」や「育った家庭環境」には、 感謝すべきだとは思いますが、一般の人の大多数は、下にある「E.」の思考習慣を繰り返す、生活パターンに、 ほとんどなってしまっているのが、現実と言えるのでしょう。 > プラスになる、損になる、という考え方はどこから広まってきたのですか? 『 広まってきた 』と言うようなことはなく、昔から存在する「極一般的な多くの人が持つ価値観」と言えます。 物事に対する「価値観」や、生きる「価値基準」と言うのは、人により、家庭により、国により、宗教によって、 さまざまに影響され、その人の人格の形成に影響を及ぼして来るもののようです。 ここで、少し柔らかい話になりますが、昔読んだ本の中で、台湾出身の作家(邱永漢:きゅうえいかん)さんが、 台湾の人は《 何かと言うとこれいくら? 》と、すべてをお金に換算して考えるので、日本的には下品?かも、 と書かれてたように記憶していますが、「損得」同様、国が変われば「金銭」のみで考える習慣もあるようです。 さて、ここまで説明すれば、この問題は【 価値観に付いての哲学 】になることに、気が付かれたと思いますが、 【 利 】や【 善 】の話題となると、奇しくも今回より五つ先に「西田哲学」への質問も出ている見たいなので、 あるいは、これらの哲学書を読めば、その疑問も氷解するのかも知れません。??? 以下、まったくの(独断と偏見)になりますが、 ここで、「人間の価値意識」や「動物との比較」に付いてまとめて見れば、下のようになるのではと思われます。 ------------------------------------- A.植物や微生物や菌類などの生物 = 【 DNA 】の働きのままに、精神活動も無く、生命活動をしている。 B.哺乳類や昆虫類などの下等動物 = 【 本 能 】の支配するままに、思考を伴わず、生命活動をしている。 C.幼児や霊長動物などの高等動物 = 【 欲 望 】だけではなく、一応思考も伴って、生命活動をしている。 D.価値や思想の未発達な子供など = 【 欲望 】や、自己の【 損得 】のみの考えで、社会生活をしている。 E.価値や思想の発達した一般成人 = 【 欲得 】【 利害 】【 善悪 】を考えながら、社会生活をしている。 F.宗教家、革命家、右翼、任侠? = 自己の【 欲得、利害 】は捨て、【 社会正義 】に、まい進している。 ------------------------------------- まぁ分類はかなり大雑把で、オーバーラップしている箇所も有り、特に最後の「F.」は、かなりコジツケ的な 分類と言えるかも知れませんし、右翼、任侠、より「ボランティア」の方が、適切だったかも知れませんね。(笑 ところで、一般的に人間の精神活動が高度になるほど、自己の「欲望や損得の価値観」からは離れる傾向になり、 自分の信じる、【 社会正義 = 善悪 】を基準とした、思考習慣になって行くことは確かなことのようです。 例えば、若い人なら容姿の良し悪しやスタイルに、劣等感を持つことも多いものですが、これらの「価値観」は、 性別による違いや、年齢によっても、変化してくる場合が多く見られるようです。 しばしば《 私は今まで、他人に後ろ指を指されるようなことは一切やって来なかった 》と言うような発言が、 人生の年輪を重ねた方の発言のなかで、良く聞かれますが、この発言からも見られるように、生きる価値基準は、 年を取るほど、【 善悪 】を中心としたものになって行くようです。

poo17
質問者

お礼

ありがとうございます。 >格段にすばらしい、「高度な人格(思考習慣)」と言えるのではないでしょうか。 わたしの大学時代のゼミのせんせいが、こういった お考えをお持ちでらしたように思います。せんせいの 著作や論文を読んでレポートを書く時は、頑張りました~~~!(ドイツ哲学が御専門なのですが、すると ラテン語、ギリシャ哲学は必須なので。ああ、むつかしかった・・・)。

その他の回答 (5)

noname#155689
noname#155689
回答No.5

損得勘定という言葉は非常に利己的で 非道徳的なイメージがあるような気がします。 でも、例えば「公益」「国益」「世界益」「地球益」と 利己的とは逆ベクトルの「益」を考えてみても 益を考える以上は「損得勘定」なのですね。 一方 >「こうせざるを得ない」とか「こうすべきだ」 とは、つまり規範を「所与」のもの、例えば 法律や道徳や宗教など、自己以外に求めるという ことになるのだと思いますが このとき問題になるのは、その「所与」の規範の 正当性や妥当性をどう担保するのか? ということだと思います。 何だか難しい言い回しをしてしまいましたが 要するに >いつも「こうせざるを得ない」とか「こうすべきだ」 >という考え方で生きてきた その「あるべき」の正しさの根拠は どこにあるのでしょう? >プラスになる、損になる、という考え方は >どこから広まってきたのですか? 哲学的に言えば、#4さんの回答にある「功利主義」 が基本になってくるのかな、と思いますが むしろ道徳を考える際には常に付きまとう問題なのだと 思います。

poo17
質問者

補足

>その「あるべき」の正しさの根拠はどこにあるのでしょう? 母の自殺だと思います。わたしには、母を見殺しにした、という強いトラウマ、悔いがあります。どんな理由があろうと、二度とあの辛い思いをしたくないの。根拠それだけです。正しい、とかそこまでわかってないと思います。 >むしろ道徳を考える際には常に付きまとう問題なのだと思います。 道徳、もわたしは友人から少しづつ、まねして習ったように思います。父がドメスティック・バイオレンスだったように思うのです。

  • MayWind
  • ベストアンサー率22% (4/18)
回答No.4

「こうすべきである」と「こうしたほうが良い」とは、明確な区別ができないとカントは言っています。 (質問の内容では、この二つが入れ替る場合もある事に注意して下さい) 前者は、客観的であり義務倫理と呼ばれ法律の根拠(目的・手段の関係)になっています。後者は、より主観的な色彩が濃く、憲法などの国家理念の根拠になっています。 どちらも、「自分にプラスになる」「自分に損になる」という価値判断が基準になっていることには変わりありません。(例えば宗教的な価値基準でも、死後の過程までを考慮した場合、最終的には損得に帰着します) 従って、この二つの違いはプラスマイナスや損得でなく、主観性の問題であることが分かります。(このため、立場によって入れ替わってしまうのです) ヒュームは、正義とは感情であると言っています。道徳も感情です。主観性を可能な限り除いていったものが法律と言えるでしょう。ですから、善悪には主観が必ず付随します。 「プラスになる、損になる」と言う観点は、経済学から確認できますし、その起源をたどればダーウィンの 「道徳起源論」までさかのぼれます。

poo17
質問者

補足

やはり、経済学ですか(わたし・・・、経済学以前に数学が・・・汗)。 「こうすべき」って考え方は、私が19歳の時に、母が若くして亡くなったことからきていると思うんです。「健康で長生きするには」。「母のように苦しむのは辛い」。圧倒的な不運に叩き潰されながら、生き延びるには、他に選べる道がなかったように感じて。

noname#15238
noname#15238
回答No.3

お邪魔します。 損得勘定でしたら、やはり本性でしょう。 ただ、損得と言わずに、 プラス×損で対比する点は、心理的に面白いですね。 「あなたのプラスになるの?」と 「あなたの得になるの?」は、微妙に違いますね。 これは直接的な表現を避ける、最近の流行でしょうね。 結果として、「あなたにとってのプラス」 「あなたにとっての得」を同じ意味にしていますが、 前者は、哲学的に、 自己を実在的存在として自己実現を意味でき、 後者はただ単に、 現実的・経済的損得の意味が強いと思われます。 本題はこちらでしょうか、 こういう考えが認知されるには、 経済学の貢献が否定できないと思います。 アダムスミスと言う経済学の先駆者は、 「パンが欲しければ、 パン屋の慈善心を当てにしてはいけない、 パン屋の利己心を当てにしなければならない」 と言っています。 その後、経済学は数学を利用して 精密な理論構造を打ち立てました 経済成長率やGDPの数字がメディアに流れ 社会に成長は良いことと認知させたのかもしれません。 このような事情で、本性としてありながら あまり表に出せなかったものが、 常識となり、利己的に振舞うことが顕在化したのかも? しかし、成長そのものが悪とまでは言えません。 現実から離れすぎると、 理想は空想や狂信に擦り寄ります、 その辺りを、お気を付け下さい。 余計な一言、失礼しました。

poo17
質問者

補足

>社会に成長は良いことと認知させたのかもしれません。 63億人の人口があって、より「豊かな」ものへの欲望を制御出来ないのは、・・・もう、全く新しい哲学の必要すら感じてしまいます。 >現実から離れすぎると、理想は空想や狂信に擦り寄ります、 はい。高校生の頃、絵本作家になりたかったんです。(高校時代の同級生に「変わらないねー」と言われてしまった)。そのせいか、精神的にも社会的にも、幼い、と、ここのサイトで指摘されたこともありました。描くイラストは空想ですね、やっぱり。写実じゃないです。

  • atman
  • ベストアンサー率38% (7/18)
回答No.2

わたしはただの大学生で哲学を専攻してる訳ではありませんが、恥ずかしながらも意見させていただきます。 それは自己啓発的な考え方なのではないでしょうか? 私は大学生というのもあって常に自分にプイラスになることを求めています。今一番勉強すべきこと、今自分に一番プラスになる考え方を常に学ぶべきであると思い日々がんばっています。(嘘です。ぐうたらだと思います) ですが、哲学、宗教に問わず私は人生を豊かにしてこそ意味があると思います。ですからプラスになることを考えるのはとても有意義なことに思えます。 poo17さんの文脈からだと、poo17さんが他の人からはまるで意味のなさない考え方をしている、もしくは周りの方がなーなーにとりあえずうまく生きていこうと考えているのかどちらかかなあと思います。 直接人生に有効な考えでなくても大切なものはあるんじゃあないかなあ(憶測です)と思いますから、ほかの人には理解されないpoo17さんの考えを大切にするのもよいでしょう。 しかし「それをすることで、あたなのプラスになるの?」とか「そう考えることは、損ではありませんか」と人からせっかくアドバイスを受けたのですからとりあえず考えてみてはどうでしょう?私個人的には人間一つの考えにかたまったら終わりだと思います。 常に人や本、その他環境に影響されて学習していくものだと思います。 ですからとりあえずアドバイスをしてくれた人の考えを理解しようとしましょう。それから自分の考えを客観視できればすてきなことではないでしょうか?(かえるかかえないかはそのときはんだんすればいいとおもいます。) 生意気言ってすみません。

poo17
質問者

補足

>私個人的には人間一つの考えにかたまったら終わりだと思います。 わたしも、それが、とても大切なことだと思います。・・・なのに、なーんか、譲れないこだわりや、頑固なとこもあって・・・。ちょっと頭の回転速度が遅いかな、って気もするし・・・。学生の頃は、いろんなものを吸収したい!って思っていましたが、今は、余分なものを削ぎ落としたい、って感じています。出家してみたいんです。

回答No.1

 素人考えですが自分だけが自分のために存在していると同時に他のものは全て自分のために存在しているという考え方はどこから広まったというより人間の本性に由来するものではないですか?一方損得は虚構であると考えるのも又人間の本姓によるものでもあると思います。損得で行動するのは動物的であると同時に動物は自然破壊を行わないわけです。人間の損得勘定は自然環境のみならず全てを破壊してしまうようにも思います。

poo17
質問者

補足

生きとし生けるものの、本来持っている本能、それが損得という考え方・・・。私は、そのへんが欠けているのでしょうか・・・。