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人生が苦であるなら
30代独身男性です。 お釈迦様によると、人生が苦であるそうですが、苦であると分かっている人生おいて、子供を産むべきなのでしょうか? 子供にしてみれば、「苦であると分かっているなら産まないで欲しい」と言われそうです。 一般人には難しい「苦を離れて解脱する」方法を説かれても、初めから生まれなければ苦そのものが無いのではと思って悩んでいます。 結局は親のエゴで産むのでしょうか? 人類の存続の為に産むと言われても、他の生態に比べて問題の多い人類の存続がそれほど大切なものとは思えません。 皆さんどうお考えでしょうか?
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闇を知らぬものに光は見えません。 人生という場で徹底的に苦労して初めて天国で幸せに暮らせます。 苦しみは成長の種でもあります。苦しいからこそ人は必死に努力します。 喜びしかない世界では人間はダメになってしまうでしょう。 あなたがもし、欲望が全て叶う世界に初めからいたとしたらどうですか? 傲慢で、我侭放題のダメ人間になりませんか? 私は絶対になります。自信があります。 二宮金次郎の様に、誠に素晴らしき人間は大抵は苦労人というのがそれを物語っています。 可愛い子には旅をさせましょう。百獣の王はわが子を千尋の谷に落とします。 若いうちの苦労は買ってでもしろ。 と、いうのが持論です。 私は不幸まみれの人生を送って幸福です。 お子様ももし不幸だとしてもその不幸によって鍛えられたことを感謝する日が来るでしょう。 私は感謝しています。自らの不幸に。
- leonhitman
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水戸黄門をご存じでしょう。人生楽ありゃ苦もあるさ!というでしょう。何もしないで生きるより、何かを求めてさあ歩け!ですよ。40代ですが、不惑の40代ですよ。捨て身になれるものです。貴殿は、20代、10代の頃に何かつらい経験をしませんでしたか?そういう方は、人生をむなしいもの、苦であるものと考えますよ。生きていれば、楽しいことは山のようにあります。希望もない、気力もないという人は、もう一度原点回帰しましょう!それがおいやならば、ストレートに申しましょうか?核爆弾が投下されて、地球が滅びたらいいのですよ!そうすれば、何も考えなくて済みますよ。だって、私も、貴殿もともに、黄泉の国へと、旅立っていますから。元気を出して、増上寺の観音様や浅草寺に参拝下さい。そして、厄除けをなさると良いでしょう。開運しますよ。今日からでもどうぞ!
- 2013ap
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「人生は苦である」は、人間の心(エゴ、煩悩)が因となり、それに縁が加わって、人間の人生や世界が作られていくという見方からきていると思われます。 厳密に言えば、二元の中にある善心も悪心もエゴであり、自分が生まれたい生きたいと思う気持ちさえもエゴになります。 つまり、親が子供を生みたいと思って生むのではなく、子供本人が生まれたいと願って生まれてくるわけです。日本ではコウノトリが赤ちゃんを運んでくると言われているように。なぜ、人間は生まれてくるのか。それは「学びのため」に生まれたいと願って、子供本人がこの世に生まれてくるようです。 子供がそれに気づくと、苦海であるこの世に二度と生まれてこないようにするために、まず、本人が自分自身のエゴを薄める努力をして、真実の自分の本心である眠る「仏性」を目覚めさせ育てて、それを他に生かそうとする(自己愛から利他愛へと成長する)のではないでしょうか。 慈悲の「慈」は「本心(仏性)」のことであり、慈悲の「悲」は「エゴを薄くして苦しみを除くこと」の意味のようです。 また、インドのニサルガダッタは誕生を祝わずに、死を祝ったようです。 生まれるのも、生まれないのも、親の責任ではなく、子供本人の自己責任ということになります。 現代人のものの見方と大分違うようです。
お釈迦様が「人生は苦である」と言ったことを、なんの考察もなく鵜呑みにするのであれば、キリスト教徒が「神はいる」というのを信じように、単なる盲信になります。 子供を生み育てること上で必ず苦楽共にあります。そしていつか必ず別れ(死別)もあります。そういうこと全てを客観的に考えて、それがご自身にとって苦であるかどうかで判断するしかないと思います。 思うに、子に対する愛情(執着)が強ければ強いほど、苦楽は大きいと思います。なぜならば、その辺の石ころのように全く執着がないならば、それによって楽も苦もないからです。 「子を産む」という原因に対してどのような「結果」を得るのか、それを主観ではなくどこまでも客観的に捉えましょうというのが、本来のお釈迦様の意見だと思います。 社会が人類の存続を「正しい」と決めつけてるなか「人類の存続がそれほど大切なものとは思えません」という意見は明晰だと思います。それと同様に、子を産み育てるということをご理解されるのがいいと思いました。
17です。 補足より。 >「人生苦しくても、これまでの業を解消し、より良く生まれ変わるために、人は生まれて苦労(精進)するべき」という答えで本件終了してしまう気がします。 おっと。それはよく誤解されて、そのように言う人がいるのですけど、ちょっと違うようです。 輪廻・カルマの話は、あそこでは仕方ありません。あれを出したのは、輪廻を信じろと言うことではなくて、考え方の話です。 「生むのはエゴ」だって言っているのも所詮はエゴの部分があるんじゃないかということです。人生が苦しみだと判断しているのは誰でしょうか?
- type2006
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2番目の参考URLなんて、なかったよ…・゜・(ノД`)・゜・ ↓「最初の参考URL」↓ http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20021120301.html ↓「2番目の参考URL」↓
- type2006
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No.24の追記です。 顕在意識を強化し、潜在意識及び無意識に打ち勝ち、 理性を超えた悟性を手にすることは、欲を滅ぼし、悟りを開くようなものです。 私のイメージでは、 凡才→秀才→英才→天才→菩薩→仏陀 って感じです((((゜Д゜ )ハァ? No.25の参考URLでは、どんな方法で改善するか、言ってませんが、 科学的なトレーニングなのかも知れません。 なんにしろ、宗教的な修行よりは、確実性のある方法だと思います。 将来的には、機械を埋め込んでサイボーグ化とかも、あると思います。 (↓の)最初の参考を見れば、人の脳が、どれだけ凄い代物か、分かると思います。 フル稼働すれば(無理だが)、凡そ100テラフロップス!(秒間、約100兆回の演算能力)、 メモリは100テラバイト以上! さらに、人間は自分たちの脳をも凌ぐ、ASCIパープルや、ブルー・ジーン/Lの様な、 スーパーコンピュータ(99年なら、ハイパーコンピュータ。2番目の参考を参照。)を生み出せる! さらにゝ、 http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0110/hyper.html では、ペタフロップスレベルの現ハイパーコンピュータを設計中とか(できあがってら、すみません) これを使えば、問題が解決するかもしれません。 超天才が使えば、もっと早く解決するかもしれません。 1000人の超天才と、1000台のハイパーコンピュータを使えば… 人類の問題の話ばかりなので、エゴについて。 リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』によると、 「私たちの体は、遺伝子を乗せて次の世代へと運ぶ乗物にすぎない。 進化は自分の利益だけを追求する利己的な複製体、 すなわち遺伝子の間で行われる永遠性をかけた戦いの結果である。」と、あります。 その乗物は、性、食物連鎖、大量絶滅、文化、文明によって、 アクセルを踏み込まれてきました。 親のエゴは、遺伝子のエゴ、そして自然のエゴ。 自然は、できの悪いものは、平気で殺します。 カタストロフィーによって、運のないものも殺します。 人の親に比べれば、どれだけ厳しく、残酷か… 苦はエゴ、つまり、遺伝子、つまり、自然が生みだすのです。 生物は皆、エゴによって生み出された、エゴのためのエゴイストなんです。 人類に問題が多いと言っても、今のところ、絶滅するような問題は、そんなにありません。 人類の存在がカタストロフィーだとすると、それによって絶滅の危機に瀕している、 他の生体のほうこそ、問題があるのかもしれません。 (なんて酷い話だ。加害者が吐く台詞じゃないな。) 初めに、「生命全滅の危機」について言いましたが、 何も、巨大小惑星(変な言葉だ…)の衝突だけじゃないですね… 確実なのは、いつか、膨張した太陽に地球ごと飲み込まれることですか… その時は、ノアの箱舟の建造と、他の恒星系適合惑星への移住しか、道はないですね。 まあ、時間はたっぷりありますから… …白雪姫さん、少しはお役に立てたようですね。
- sirayukihime
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レスが多くて大変ですよね~。ガンバレ!とか言いながら飛び入り2回目です。許してください。 皆さん論理的な見地から述べられている方が多いようですので私は思いっきり実感で述べさせていただきます。 親の恩とは、よく言いますけど子の恩、もありますよ。あまり誰も言わないし珍しいことかも知れないですが。 この子どもが生まれて来なかったら親の人生メチャクチャという実例もあります。子どもにしてみれば生まれて来なければよかったと思うほど親の犠牲になったとしても、それで自分が生まれながらに背負った借金を返したことになるのかも知れないし・・・。 結局カルマとか輪廻的な考えに向かってしまいそうですけど・・・。そうとでも思わないとやり切れません。 私は子どものころから自分は子どもつくらない!って固く決心してたんですが、ある人に出会ったとたんに猛烈に、その人の子ども欲しくなりました。思想信条なんて、どっか行っちゃいましたよ。で、気がついたら子どもに縁のない人生になってました。固く決心する必要なんてなかったわけですね。 早い話、その人の人生に縁があるなら「私の信条はですね」って言っても来るモンは来るし「子ども欲し~欲し~」って言っても来ないモンは来ないです。 与えられたら縁があったわけで、与えられなかったら、その人の人生には縁がなかっただけじゃないかと思います。思想でそうしたって言うの後付けに過ぎないような気がします。 自然体でいいんじゃないでしょうか。 個人的には「みんな揃って去勢して」って言うのが好きですけど・・・。ヒトがこう悪さをするようだと創造主からみても「他の生態系守るためにお前らだけ消滅してくれるか?」って言われそうだし・・・。
- vagabond_0710
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No.20の者で2回目の投稿になります。 宗教の話が多いですが、人それぞれ考え方があって面白いですね。 僕の宗教観ですが、 宗教を論理的に考えれば、その多くは、死やこの世界の不幸な出来事、 また生きることに対しての意味や目的を見出す難しさなどに伴う意識の分裂、 さらに不条理感を無害化するためにあると思います。 それを論理的に解釈するために、その主軸を人知を超えた外の世界に置くのです。 そうすることにより、 理屈だけでは捉えることのできないこの世界を捉えることができるのだと思います。 過去に釈迦やキリストが存在した、いや存在しなかったと人は討論しますが、 僕はどっちでもいいじゃん!と思います。いたらいたんだし、いなかったら いなかったんだし。現実は、人々の心の中にはいたり、いなかったりすること だけが実感です。 No.20と同じことを書きますが、死ぬときはいきなりぽっくり逝きます。死因なんて 名前をつけるだけで、根本的な死なんて、また病気も、よくわからないようなものです。 世の中わからないことだらけでも、今まで人類は生きてきました。わからないからこそ、 盲目的に生きてこれたのでしょう。明日がわかっていたら、面白くもなんともありません。 それこそ絶望します。 人類存続のことも、人類滅亡する危機はこの瞬間瞬間にあるんだし、存続が大切だ、 いや大切じゃないと考えても答えは出ないでしょう。出るとすれば、宗教と同じく、 自分が納得するか、しないかだけです。 はてさて、僕自身、悩むからこのように他人様と意見をぶつけ合い、その中に新たな 自分を発見をしていくのですが、結局、人それぞれが自分の生きたいように生きていく としか言いようがないような気がします。 今のように自由な時代は今までなかったのだし、自由からの解放でなく、自律しなければ ならない緊張感があって、そのために、自分の価値観や生きがいなどを明確にしたいと 多くの人が望んでいるのだと思います。自分が納得するそれを確立できれば、子供を産む ことにしたり、産まないことにしたりします。 結局、自己満足というか、言い聞かせというか、納得するってことですね。するか、しないか、 良いか悪いか、苦か楽か、この二元化の結果が自分になっていく。結局、自分が全てを決断しています。 そのことを乗り越えて在るべきだと思うのが今の僕です。 その自分のスタイルを他人に押し付けることなんて出来ないので、僕はこうだ!と主張するぐらいしか できません。僕の主張を否定したり肯定したり、人それぞれ感じ方があると思います。人それぞれ異なる からこそ、こうやって意見をぶっつけ合うことが楽しいのです。お互いにふくらんでいけたらいいなと思います。 長文で失礼しました。以上、僕の意見です。参考になれば幸いです。
- frau
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NO.13です。にぎわっていますね。とても真摯なご質問だからでしょう。 ところで先は社会問題の方面から回答しましたが、実際「生産者」として、そのような現実問題もあり、て妊娠・出産することに躊躇せざるを得ないようなことを少しばかり社会の原因にしたきらいがあったからでしょうか。 >親のエゴで産むのでしょうか? 最近問題になっている虐待は、外見的には親のエゴとみえますが、それは「虐待の連鎖」です。虐待されてきた子は親になったとき自分の子を虐待する傾向がみられるようです。それは心の構造上、「愛したくても愛し方が分からない」などの意思と反対に動いてしまうといいます。虐待の正体がそのように本心のコントロール外にあるのだとしたら、虐待は親のエゴとは必ずしもいえないわけです。むしろ親も被害者です。 また戦争も、やられたらやり返すという「暴力の連鎖」で延々と続いてきました(闘争本能は人間の本能ともいうが)。 同じように「出産」も、人類生存本能のゆえであれば、産まないことを選択するのは、脈々と地道に「今、ここにいる」私たちの存在を為してきた先祖たちが編み出した「えにし」の結果です。この本能と義務を放棄するということは勇気がいることかもしれません。 しかしご質問者様がとても純粋と思ったのは「他の生態に比べて問題の多い人類の存続がそれほど大切なものとは思えません」とおっしゃったことです。とても乱暴な言い方ですが、他の生態を救うことは、あなた様のようなある意味の自己犠牲が必要だからです。それは人類至上主義、科学万能主義のために、すべての生命の母体である地球が壊されていくこの現実を憂慮するたびに、微力ながらも私もそのボランティアに参加しようか、と、しばし思うからです。 私はこの世は性悪説で成立していると思います。暗い姿勢ではなく、しかし「明るい」希望を抱いてあえて、こういいます。性善説というのは「虚無的な明るさ」だと思います。世の中が明るいことばかりが多く、悪いことや暗い出来事が少なければ、明るいことばかりに強調されて、悪いこと、暗いことから何かを学ぼうとしても偽善に見えてしまうであろうからです。私はそんな世界観をもっていますので、やはり自分の子供を暗い世界に産み落とすのはある意味既に見捨てているのかと少し強迫概念的に思ってしまいます。(この世が暗いところであるからこそ、生きる上での出来事は全て勉強となり、そこから得た悟りをもって性善説=神の世界へ近づくのでしょう) しかしそれでも生きることや、育てること、成長することの素晴らしさを知っている方々は産むことを推奨します。それは神秘的な生命の営みに参加し、またこの上ない「命」の連鎖の一部を成す素晴らしい仕事だからです。 「親のエゴ」というのはそもそも出産そのものでしょう。子供が幸福になるか、不幸になるかは、子供自身もわかりません。勿論親の育て方も関与しますが、やはりそれ以上の宿命というものを背負って生まれてくるのは、親の知ることではありません。 カルマ論からみれば、子が願わなくとも、それでもこの世に産み落とされるのはやはり今生での宿題が子に、そして産む者にもあるからなのでしょう(だからシェイクスピアがうたったように産まれたての赤ん坊がする初めの行為は「泣く」ことなのでしょう)。ということは「初めから生まれなければ苦そのものが無いのでは」ということはカルマの法則からみればその法則に反しているといえます。カルマ論からみると、産まれる側はカルマを残している限り、また産む側の「義務感」も、カルマを背負っている者同士としての母体であり本体であるのでしょうか。 >人類の存続の為に産む これはまた、神やその人類の先人たちが意識的また無意識的に積み上げてきた概念と思いますが、よく考えると義務ではありません。また「子供を産まなければならない」という法律もありません(SF映画では増えすぎた人口を減らすためにこうした規定も題材として使われますし、現に中国などでは法令にあります)。 しかし日本で自由な文化の上では産む選択、産まない選択は今のところ自由です。 ある意味の宿題に逆らうこと、それは「本能としての義務」に参加できない寂しさ、老後一人になってしまう寂しさや、人によっては不便さ(それこそ本当の親のエゴ)などの代償などはあるかもしれませんが、その代わり、例えば養育者としての責任ある親としてではなく、誰々ちゃんのお母さん(お父さん)としてではなく、夫(妻)から呼ばれるママ(パパ)としてではなく、その前に一人の個人として生きる自由とリンクします。そのどちらを取るか?それも個人の自由です。が、新しい生命を産み落とす可能性を秘めた者としては持て余すエネルギーをその自由へ投射しなければならないときもくるでしょう。つまり「神」との「しがらみ」ですね(笑)。 ただ子は人類の宝と考えると、自分の胎内から出た子だけが「子」という思い込みもエゴですよね。そのひとつとして、もっと日本でも養子制度が整ってもよいと思います。そうすれば虐待連鎖の特有な内向的、強迫概念的な「子育て」への閉じこもりがちな幻想によって、親も子も破滅へ向かうことなく、「子育て」はそもそも人類共通の幸福な作業であるという共有認識をわかちあえると思います。勿論現実として養子制度も問題は生まれるでしょう。しかし「私だけのもの」ではなく、子がそのように次世代を担う貴重な存在だとしたら、子育ての構え方もそんなグローバリゼーションに基づくものであるべきと考えます。 …といいつつ、実は私の選択も、迷っています。産む性を持つ者として、やはり適齢期は確実にやってきます。…ですがやはり今は可愛いくて仕方ない猫の子育てで手一杯です(笑)。(長文失礼しました)