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江戸城は最後どのようにして取り壊された?
今の皇居の場所に江戸城が現存しないのは何故ですか。最後どのようにして無くなってしまったのでしょうか。恥ずかしながら外国人に訊かれて答えられませんでした。
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はじめまして。 江戸城の城郭についてですが、 まず1861年、文久元年に本丸、二の丸、西の丸御殿が消失します。 二の丸と西の丸の御殿は明治に入るまでに再建されますが、本丸御殿は放置されます。 その後、無血開城され1873年、明治5年~6年に渡って 神田橋・一橋・日比谷・数寄屋橋・水道橋・小石川・四谷・赤坂・筋違橋・浅草橋などの多くの門を 撤去し始めます。 主に場内の建築物を維持修理する費用が負担になったためです。 さらに西の丸御殿が火災で焼失します。 その後堀が埋められるなどし、1923年、大正12年に関東大震災でも多くの櫓、門が倒壊します。 おそらくこれらも手入れが行き届かなかった事から 脆くなっていたものかと思われます。 太平洋戦争で大手門が焼け落ちます。 以後若干の外観修理が富士見櫓や桜田巽櫓に施され、 今に至っております。 明治4年に城内の建築物が写真で撮られており、 数枚残っています。 見る限りでは、屋根瓦から草が生えるなど荒れているのが見受けられます。 さすが王城・江戸城。 作るにも莫大な金が要しますが、維持にもかなりの負担ができてしまうようです。 国づくりで手一杯の政府が、放置する形になったのは致し方ないようですね。 ご参考になったでしょうか? では、失礼します。
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- dejiji-
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回答No.1
お礼
詳細なご回答ありがとうございました。 疑問の大部分が解決しました。 維持費用を捻出できなかったのは、個人的に残念に思います。今から復元するということも無いでしょうし。