• 締切済み

小栗上野介

こんにちは。 もしかしたら、今月新発行された新札の一万円の顔は小栗忠順だったかもしれない。 そんな事をふと考えていました。 罷免され、群馬の山奥でひっそり暮らしていた者を、明治新政府軍は捕らえ、何の取り調べも無いまま河原で斬首とは、いささか乱暴過ぎませんか。 あと1ヶ月もすれば初めての子供が生まれてくるのに、顔も見れないまま、享年42歳。 9ヶ月の身重で山を越え、逃れる事となったご夫人も、どんなにお辛かったか… 罪状は何だったのですか

みんなの回答

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (417/1292)
回答No.5

勤王の志士と呼ばれたテロリストが維新政府を建立しました。 小栗上野介の河原での斬首は、維新政府の暴挙の一つです、 罪状は、何とでも造れます、武士が最も大切にしている事を 踏みにじった尊厳の欠片も無い蛮行ですね、小栗上野介憎し による行為としか思えないです。 外交・内政に長けた有能な人物で、菅原道真、石田三成に続く 有能な官僚だと思っています。 東郷平八郎長官は日本海海戦に勝利した後、小栗上野介の墓前 に、「色々な施設を作てくれたお陰で艦船の整備が出来、勝利 する事が出来た」と報告してます。 テロリストが建立した大日本帝国はひたすら戦争戦争への道を 突き進み、太平洋戦争に負けて、320万人の国民の犠牲者を 伴って、1947年5月3日に滅亡しました。

sora_iro1881
質問者

お礼

gunsinさんこんにちは! ズバリありがとうございます。 テロリスト新政府に日本の宝になるべき命は奪われました。 この方は、伊能忠敬と同じくらい尊敬する歴史上の方です。 信念を曲げない。 太平洋戦争は、飛行機を操縦出来る様な優秀な若者を特効で奪い、醤油を飲んで熱を出して逃れる卑怯者、赤紙が来ない健康上や身体的に問題のある男を残しました。 この国から、性格も頭も良い男子を消してしまいました。 回答をどうもありがとうございました!

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5119)
回答No.4

>もしかしたら、今月新発行された新札の一万円の顔は小栗忠順だったかもしれない。 日本政府・日銀関係者が「平等な思想」を持っていれば可能性はあったでしようね。 明治新政府が行った「富国強兵」は、幕臣である小栗上野介が計画していたプランをそのまま行っていますからね。 横須賀の造船所などは、有名です。 >明治新政府軍は捕らえ、何の取り調べも無いまま河原で斬首とは、いささか乱暴過ぎませんか。 幕府軍・朝敵の「幹部・参謀」ですからね。 どこかの社長・理事・政治家と異なって「部下の行った事に、責任はとれない。すべて、部下の責任」とはなりません。 旧日本軍士官でも「突撃!玉砕命令」を出しても、戦後何も責任を負わないで軍人恩給で天寿を全うしていた軍人も多々います。 討幕軍としては、敵の幹部を許す事は出来ません。 また、幹部が生きていれば「部下が再度攻撃をしかけてくる可能性」も考慮したのでしよう。 頼朝を殺さなかったので、平家は滅びた歴史もあります。 ただ・・・。 小栗上野介関係地域には、別の説が残っています。 「幕府の軍資金を小栗上野介が管理していた」 江戸城内には、1両も現金が無かった。討幕軍は、幕府の軍資金のありかを小栗上野介に尋ねたが回答が無かった。 「じゃ、死ね!」 という事でしようね。 >罪状は何だったのですか (いろんな解釈が可能な)朝敵です。

sora_iro1881
質問者

お礼

oska2さん、こんにちは! 仰る通り、プランの横取り、優秀な小栗は、造船所の視察も熱心に行い、やってみたとか。日本の為に、技術を取得しようとしてくれた。オランダ、フランス、彼の眼は常に海外に向いていた。立ち遅れている日本の現状を憂いでいたのではないかと。 勘定奉行でしたからね、しかし、正しくある小栗が着服するはずないです。 何者かが着服し、擦り付ける為に、とりあえず命を奪い、安心して、理由は後付けにした、こ狡い輩がいたはずです。 旗本の家に生まれ、頭脳明晰の彼の最期はあんまりでした。 回答をどうもありがとうございました!

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11083/34534)
回答No.3

姉さん、革命が起きたら旧体制の人たちは皆殺しにされるのが歴史のお約束なんですよ。 その典型がフランス革命におけるルイ16世とマリー・アントワネットです。別に二人は意図的に国民を苦しめたわけではありません。けれど市民からすれば倒すべき旧体制の象徴でもありますので、広く人々に「世の中は、変わったのだ」と知らせるためにも、また旧体制による巻き返しに利用されないためにも、殺してしまうに限るのです。 ロシア革命においてのロシア皇帝一家もそうでしたね。時代はもっと下っても、ルーマニア革命では亡命しようとしたチャウシェスク大統領は途中で捕まり、裁判といえるほどの裁判もないままに処刑されました。 2010年から起きた「アラブの春」と呼ばれる一連の革命でも、リビア革命でカダフィ大佐は捕らえられ、処刑されました。 明治政府についていえば、戊辰戦争の末に新政府が始まるわけですが、明治6年にいわゆる「血税一揆」が起きて、それをきっかけに明治7年から「佐賀の乱」などを始めとした「士族反乱」が九州を中心に起きることになります。そしてそれは最終的には明治10年の「西南戦争」に至るわけですけれども、やはり明治政府は当初は国内の治安維持に非常に苦労したんですね。 特に士族反乱から西南戦争にかけては明治政府もどうなるか分からないという非常に危険な状況に陥りました。 「雨は降る降る、陣羽は濡れる。越すに越されぬ田原坂」と後に民謡になって美空ひばりにも歌われた田原坂の攻防戦というのをどこかで聞いたことがあるかもしれませんが、この田原坂の戦いでは、明治政府は戦争では一番やってはいけないとされる「戦力の逐次投入」をやってなんとか田原坂を死守しようとしたのです。 ちなみに元新撰組の斎藤一はこの戦いに抜刀隊で明治政府の警察官(今でいうとSWATみたいなもんでしょうか)として参加しています。 なぜ新政府軍が田原坂にそこまで戦力を投入したのかというと、ここを突破されると西郷軍が一気に九州に広まり、もしそうなるとそれに呼応して全国各地で不平士族の反乱が同時多発的に起きる危険もありました。そうなるともう新政府軍は戦力的にもその反乱を抑えるだけの数がなく、少なくとも西日本が明治政府の支配が及ばない地域になってしまう可能性がありました。 そのくらい大政奉還から西南戦争までの明治政府というのは危うい状況にあったのです。だから、旧幕府軍の重鎮で軍事にも精通しており、人々をまとめる力量も家柄もある小栗忠順を生かしておくことは明治政府には到底不可能なことであったと思います。 でもね、「明治維新は革命なのか」という議論がありましてね。「明治維新は革命とはいえない」と主張している人たちがそう主張する大きな理由が「旧体制のお殿様が誰も殺されていないから」なんですよ。 それこそ最後の将軍徳川慶喜や、最後まで抵抗した松平容保なんてまあ普通に考えたら生かしておくわけにはいきません。だけどこれらのお殿様はみんな生きてるんですよ。明治の元勲なんてだいたいみんな下級武士ですから、他藩とはいえお殿様を処刑するのはちょっと気が引けたのでしょうかね。明治維新は不思議な革命(みたいなもの)だと思います。 小栗は主戦派でしたが、とはいえ同じように主戦派で函館戦争まで戦った榎本武揚や大鳥圭介は後に明治政府の結構なお役人にもなってますので、その最後の顛末を考えると「偉い人(西郷隆盛や大久保利通など)に報告が入る前に小栗を亡き者にしたい」という人が現場にいたのだろうなと思います。偉い人から「使えるかもしれないから、殺さずにとっておけ」といわれたら、もう手は出せないですからね。あるいは偉い人から「見つけたらドサクサに紛れて殺しておけ」と密かに命じられたのかもしれません。今となっては真相を知る術はないでしょう。 個人的には、小栗忠順を一万円札の顔にするなら土方歳三にして欲しいです。こっちのほうがずっとイケメンですから・笑。

sora_iro1881
質問者

お礼

テッドさん、こんにちは! 故.ダイアナ妃は、マリーアントワネットの生まれ変わりではないかなどと言われていた事がありましたね。美しく、享年が近いか、一緒だからかな? アメリカ使節団には正使に新見、副使に村垣、小栗は目付け役でしたが、アメリカ側は小栗がリーダーかと思ったらしいですね? 新見は男振りも良く、堂々としていたにも関わらず。わたしは、小栗の写真を見ているだけで好きになります。何もかも見抜いているかの眼に、優しさもあり。小学生の頃に、100点なのに先生の採点ミスを申告して、98点になった男の子によく似ています。 小栗は、自分の危機も理解していて、自分に何かあった場合の為に、寺に永代供養の金を納めに行っていたそうですね。 妻子の事も頼んでいましたし。 深谷の一万円札になった方は、元NHK記者の木村太郎サンによく似てます。 渋沢栄一と小栗の構想はほぼ同じだったそうです。 鬼の副長は、逃げた北海道で、下々の兵士にとても優しかったそうですね、で、いざ戦いが始まると、兵はビビり撤退してくる。 すると鬼が『進めー!引いて来る者は斬る!』て。前に行っても後ろに行っても斬られちゃうっていうね。 え~イケてるなら芥川龍之介ですよねっ ぜひお札に😍 回答をどうもありがとうございました!

  • toka
  • ベストアンサー率51% (1167/2280)
回答No.2

 小栗忠順の業績や評価は他の回答に譲るとして、福沢諭吉が一万円札になった辺りを契機に、政治家や支配者は紙幣の肖像の候補から外れ、文化人や学者を起用するようになりました。  小栗を例にとっても質問者と回答No.1のように評価が分かれるように、政治家はいつかは批判の対象になる危険が大きいからです。

sora_iro1881
質問者

お礼

tokaさん、こんにちは! 基準が良く分からないのです。 岩倉具視って、お札になる様なおヒトでしたっけ…伊藤博文は暗殺されてしまったし。 そうですね、文化人や世界的な賞を取った方なら、誇らしいですものネ、宇宙飛行士なんてのも良いかもです。 回答をどうもありがとうございました!

回答No.1

小栗忠順と言えば明治新政府にとっては最大級の戦犯でしょう。 何しろ将軍慶喜が鳥羽伏見の戦に負けて江戸に帰っても徹底抗戦を説いて勘定奉行を罷免されたほどの抗戦派です。 それも単なる精神論ではなく、勘定奉行を歴任する政治力の持ち主であるのみならず、蘭仏の銃砲による近代戦術を導入して幕府軍の近代化を図った中心人物でもあるので、近代戦術を熟知した軍略家でもある事から、味方にできればこの上なく重宝する重要人物ながらも敵に回せば最も危険視すべき処刑対象者だった事でしょう。 小栗に辛酸を舐めさせられた人達にとっては冤罪を擦り付けてでも消したいと思う第一人者だったでしょうね。 赤報隊なんか放って民衆を騙していた頃の倒幕派は、まだ明治政府としての基盤が確立しておらず、薩長土だけでは人材も手薄で若輩者ばかりの組織でしたから、小栗のような円熟した実力派を取り込める者は数少なく、西郷隆盛も小栗を使い熟す算段が立たず、処刑を主張する者等を抑え切れなかったのでは? まぁ結果的に明治政府は日本の近代化を成し遂げ、富国強兵政策によって欧米列強に飲み込まれぬ日本国を作り上げましたが (その後は兎も角もですが(^^;))、明治初期に粛清された旧幕府方の知識人って惜しい人達がたくさんいますね(^^;)。 小栗の罪状は反乱 (国家転覆) 準備罪……みたいなものです。 「勘定奉行在職中に不正で溜め込んだ大金を持って帰り、邸宅建設と偽って要害を築き、銃砲を集めて反抗の狼煙をあげる」というデマを何度も流し、小栗在郷の村民は小栗を慕っているというのに近隣の村々をデマで踊らせて一揆を起こさせたり、政府上層 (と言っても Top ではない中間の総督府) の意向を斟酌した地方の藩が勝手に小栗を捕縛して処刑したのですから罪状なんてでっち上げです。 でも中央政府も上記のように理念と実行手段との齟齬を調整なんかできない混乱期にあるのですから役に立ちそうな人物を丹念に拾い上げる余裕はなく、小栗は不運にも失われた惜しい人物の 1 人なんですよね(^^;)。

sora_iro1881
質問者

お礼

HAL2さん、こんにちは! 不正など、行うはずもない人物という事、 後世の者に伝わっていますね。 そんな風に亡き者にしても、その急ぎ方や、小栗が村人に慕われていた事実から、分かります。 村人数名は、道子夫人を会津に逃れさせ、更に江戸に、そして静岡に、また江戸にと送り届け、安全に暮らせる事を確認してから群馬に帰りました。 また、小栗の首を掘り起こし、胴体と一緒に葬った事からも、どれだけ村人に敬まられていたのかが分かります。 西郷も怪しいものです。 銅像になってますが、どうにも胡散臭い人物です。 徳川慶喜もね。すがる小栗上野介忠順を払ったそうですね。保身に必死でしたのね。 回答をどうもありがとうございました!

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