> 上野介は勅使接待指導や、朝廷と幕府の間に取り持つ役だと言われてます。
いえ、武家の「上野介」に役割などありません。ついでに言えば、もう貴族の「上野介」にも意味はなく、武家が名乗る「○○守」や「侍従」「主殿頭」「主膳」等にも意味はありません。単なる格好づけです。
侍従と言えば、正しくは天皇の周りで生活を保佐する役職ですが、侍従と名乗った武家は天皇に会ったことさえありません。
だいたいやり方が、武士として功績を上げた時とか家を継いだ時など何かの際に「何になりたいか?」と武家たちの希望を聞いて、相応な要望ならば「何某を従五位下〇×守に任じられたし」と紙に書いて京都に送り、天皇の裁可(OK)を待って、官位や官職を名乗らせたのです。天皇はよほどのことがないかぎり、OKしたわけです。
悪名高き田沼様は「主殿頭」ですが、主殿寮の仕事なんて知りませんでした。幕末の老中「阿部正弘」(備後福山藩主)も四位の侍従で、外国船の情報などを天皇に奏上していた由ですが、とても天皇の周りでウロウロしているわけにはいきませんでした。
加賀は前田家の領地ですが、(加賀なんて行ったこともない)加賀守を称する武家はたくさんいました。
吉良上野介こと、「吉良義央」が勅使接待指導や、朝廷と幕府の間に取り持つ役を勤めたのは、吉良家が庶流とは言え足利家の流れ(高家)だからです。言わば、家業。
1653年幕府に出仕し、1657年に従四位下に叙し、侍従に任官した形になりました。勅使接待指導や、朝廷と幕府の間に取り持つ役をする者としての箔付け・権威付けをしてもらったわけです。
勅使接待指導などをする高家の家督を継いだから従四位侍従になったのであって、従四位侍従になったから勅使接待指導をするようになったのではありません。
1663年後西天皇の践祚の際に上京して、「よく参った」ということで従四位上に叙せられました。
手元に左近衛権少将になったという資料はありませんが、名目上はなっていたとしても、武家なので、実際にその役割を果たすことはありません。
我ながらくどいんですが、吉良義央が勅使接待指導役をやったのは、従四位だからでも侍従だからでも上野介だからでもありません。
幕府から、そういう役を担う「高家」の一員(とりわけ吉良家は筆頭)として召し抱えられていたからです。
まったくの余談ですが、あらためて手元の資料を読んでいると、どうも「上野介」は幼名時代に僭称していた(親がそう呼んでいた)もののように感じてきました。家督を継いでからは、上野介と自称はしていなかったような・・・ 。しりませんが。
お礼
ありがとうございます 「勅使接待指導などをする高家の家督を継いだから従四位侍従になったのであって、従四位侍従になったから勅使接待指導をするようになったのではありません。」 に、すべて要約されてよくわかりました。