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武士道の「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」
この価値観は後世の後付けではないのですか? 最後は戦前戦中の人心掌握に悪用されたとさえ思っているのですが。 そもそも侍になれる人は限られていたのに武士道もクソもない気がします。国のトップや軍人は侍のつもりだったのだろうか。 侍も皆が屈強で勇敢だった訳でもなく、戦では裏切りもありました。切腹では納得できなければ最後まで抵抗を試みたという話も耳にします。 私は古流剣術を長年やっていますが、大和魂とかスポコンとかそんな暑苦しいのとは無縁の肩肘張らない脱力の境地、自然であれ、抜かざる事、が根底にある様に感じます。 もっと柔軟な世界だったのでは?
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- oska2
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>この価値観は後世の後付けではないのですか? 後世を、どの時代とするかで色々な解釈になります。 農民と野武士・武士の違いが、はっきりしていませんでしたかね。 秀吉も、当初は農民兼何でも屋でした。 ただ、江戸時代の「南総里見八犬伝」には価値観が既に述べられています。 一般大衆にも、価値観が認められていたのです。 >そもそも侍になれる人は限られていたのに武士道もクソもない気がします。 江戸時代は「カネ次第」で、武士になる事が出来ました。 同心で、約150両から。与力で、300両から・・・。 豪商は、武家の株を購入していますよ。^^; 地方でも坂本龍馬で有名な坂本家は、本家「才谷屋」が郷士株を購入したのです。 ※土佐藩では、旧長曾我部家の家臣を郷士。山内家家臣を士。 >私は古流剣術を長年やっていますが・・・。 江戸時代の武士(旗本当主・長男)も、形式に雁字搦めで苦しかった様です。 が、次男坊以下や御家人だと「武士は食わねど爪楊枝」という様な事はしません。 自然体で、悠々自適な生活を謳歌していました。 これが、明治政府の教化で「武士道」という政策が強力に進められたのです。 要は、「上(主君)の命令に逆らうな」ですね。 軍人⇒上官⇒天皇です。 「上官の命令は、(陸海軍統帥権者である)天皇陛下の命令だ!」です。 極東軍事裁判(東京裁判)でも、東条英機は「陸海軍軍人は、全て天皇陛下の命令で行動している。勝手な行動はしない」と被告席から述べています。
- jack-a3
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武士道という言葉が書かれた最初の書物は江戸時代初期に書かれた『甲陽軍鑑』だそうです。ですがこの書物はあくまで武士個人の戦闘術や生存術が書かれており、武芸書です。 江戸時代以前は「奉公とは「御恩」の対価である」という考え方のもと、主君と家臣は主従関係というより契約関係だった時代もありましたし、戦国時代にはよい条件を出す主君に鞍替えすることは普通でした。藤堂高虎は「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言ってます。 ですが徳川幕府の下で平和な時代になると、そんな考え方をしてる武士の意識改革が必要になってきます。 幕府は武士に対して武芸だけに秀でた戦闘員としての集団から、国を運営する役人としての集団になることを目的とし、儒教・朱子学を推奨したのと合わせて武士道の意味も変わります。主君に仕えてまじめに公正に役目を果たせってことで「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」の言葉が入ってきました。特に「忠義」はこの辺りで入ってきたものですね。そして明治時代以降は富国強兵の掛け声のもと、国民道徳として武士道が使われるようになった、という流れです。 「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」が後付けなのも、戦前の人心掌握に使われたのもその通りですが、江戸以降の武士道とは武芸の心得や奥義を説いているのではなく、どちらかというと役人としての道徳を説いているものです。 「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」は役人の心構えです。
- EXIST2090
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江戸末期になると忠義とは何だったのか?って状況になります サムライが戦が無くなって処分(切腹)させられたりってのが頻発するからです 現代でも似たようなものを感じますね さておき自分は「当時、便利に使われた言葉」というのが武士道だろうな みたいなことを考えました 「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は 江戸時代初期、武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の『甲陽軍鑑』なのですが 江戸初期って徳川が天下を取って戦がない時代です。つまりサムライを持て余すわけで こういう使いやすい響きのいい言葉が流行ったのではないかなと