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なぜ大学の「私文」は馬鹿にされるか

Youtubeのwakatte.TV観てて思ったのですが、なぜ大学の「私文」は馬鹿にされるのでしょうか?よろしくお願いします

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  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおりお答えします。 >なぜ大学の「私文」は馬鹿にされるのでしょうか? ⇒事の発端は、「私文」に限らず「国公文」でもあり、「大学教養課程」の問題でもあったような気がします。もう半世紀近くも前から始まった動きです。当時の大学は、学部や専攻分野の違いによらず、前期2年間は教養課程としての学修や、いわゆる文科系のリベラルアーツを重視していました。何の専門家になるとしても、まず「人間学」の基礎を修得しておくべし、というのがその趣旨だったのだと思います。したがって、それなりの意義というか、目的意識や成果が伴っていたように思います。 ところが、時代の変化が加速して経済競争が激化すると、大学のありようにも影響し始めました。つまり、それまで大学とは無縁だった「産学共同」の要請が叫ばれるようになったのです。その線に沿った改革を実現しようとしてか、時の文部省から高等教育機関に向けてある種の号令がかかりました。時流に合った高等教育のあり方を審議するようにとのお達しです。一流大学の総長・学長が座長に任命され、数度にわたる審議の結果、「大学の大綱化」なる法案が成文化され、発布されました。大学では、現場の教職員に1,2度「下知」されただけで、担当者間での議論はろくになされないまま、当の「大綱化」が実施されました。 その骨子を要約すれば、「なるべく早い時期から専門科目を学ばせる」というものでした。勢い、教養課程や一般教育科目は軽視され、「イッキョー」とか「パンキョー」と蔑称され、多くの教養科目が縮小または廃止されました。一般教養科目担当者の多くが、「人間学の軽視は、いずれ人間性の問題を引き起こしかねない」として反論しましたが、負け犬の遠吠えのように見なされ、鼻先であしらわれたという観がありました。ある時、3大新聞などでも、いずれ起こるであろう弊害を心配する声が記事になりました。それで、一時元に戻す大学もありましたが、大勢は、「心が豊かになっても、それだけではメシのタネにはならない」と、技術重視や国際競争力の補強に力を入れるべしとする意見が圧倒的でした。 その結果かどうか定かではありませんが、大学生の幼児化(「高校3.5年生」などと呼ばれた)、3無主義(無関心・無感動・無責任)、軽薄短小、モラトリアム人間、分裂症などの傾向が顕著になっていきました。いや、それだけではありません。もっと恐ろしいことが懸念されたのです。哲学・人間学を欠く技術進歩が、人間の自己疎外を引き起こすかもしれないという危惧でした。しかもそれは、日本のみならず世界の潮流でもありました。 お偉いさん方の目論見とは逆に、教養課程で人間性を培ってきた世代の築いた繁栄が一瞬のうちに水泡に帰してしまいました。世に言うバブルの崩壊です。これが、どの程度「大学の大綱化」と関連して起こったことか正確には分かりませんが、ともかくそれ以来、日本社会全体にわたって、文字通り「鳴かず飛ばず」の時間が流れて今日に至っていますね。 この一連の変化に際して、一個人として私の気になったのは、経済的な落ちぶれもさることながら、理系に特化した頭でっかち、人心荒廃、精神のロボット化などでした。かくして、(私の主観と独断によれば)高等教育の短絡的施策によって、「私文」が、いや、それに限らず「国公文」が、「大学の文科全般」が、「一般教養・人間学・哲学」が、こぞってバカにされる傾向が蔓延し、それを1つの遠因として日本が、そして世界が、狂気の流れに浸かってしまったのだ、と私はそう言いたいです。世界のあちこちで見られる(仁義なき)紛争が、それを物語っているように思えてなりません。 問題を広げすぎたかもしれませんが、以上が私の個人的な回答です。 それにしても、人間の進歩とか、真の幸福って、一体何でしょうね。

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質問者

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参考になりました。ご回答ありがとうございます

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