- 締切済み
薩摩と長州が嫌いです
日本をこんな国にしたやつらなのに何故もてはやされてるのですか? 天皇を勝手に錦の旗にして、自身の利益のために国を転覆し西洋に魂を差し出し現代日本という奴隷国家を作った元凶ではありませんか?
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
みんなの回答
- takochann2
- ベストアンサー率36% (2420/6678)
用語の意味が分かりません。 「自身の利益のために国を転覆し西洋に魂を差し出し」というのが具体的に何をもってそのように解釈しているのか、「現代日本という奴隷国家」とは具体的に内を示しているのかわかりません。一般的に使われる言葉ではないので、誰にもわかるように説明が必要だと思います。
- staratras
- ベストアンサー率41% (1498/3648)
家康から慶喜まで二百数十年もの間、国内外の「徳川による平和」がよく保たれたと思いますね。幕府と諸藩で構成するいわゆる幕藩体制という当初の制度設計が巧みだっただけでなく、その保守管理(部分的な改変含め)も巧妙だったということでしょう。 ただ、どんな制度にも歴史的な寿命というものがあります。19世紀の国際化の時代になって、列強が東アジアにも進出して来るようになると、いつまでも続けるわけには行かなくなります。近代的な国民国家を作って植民地化を免れたい日本の選択肢は「幕府による漸進的な改革」か「幕府以外の勢力による急進的な改革」の2つしか事実上なかったと思います。近代的な選挙など日本に存在しない時代ですから、幕府による漸進的な改革が行き詰まれば最終的には実力(武力)による決着で後者が選ばれました。 薩摩と長州はその幕府以外の勢力の中心的な雄藩だったので、新政府の中核となったのは当然で、それが当時は歴史的な役割でした。その後薩摩が西南戦争で西郷らを失ったのに対し、長州は総理大臣を次々に出すなど影響力をより強く長く残したという違いはあります。 明治維新はマクロで見るなら、幕府から薩長を中心とする幕府以外の勢力への政権交代ですが、さらに巨視的な視点で見るなら、島津と毛利という有力な外様大名を西南日本に存続させた家康の布石が最終的に活かされたと見られなくもありません。もちろん「明治維新も家康の功績」などと極端な主張をするつもりはありませんが、江戸時代は参勤交代や大名の国替えなどはある一方で極端に中央集権的な時代ではなく、少なくとも領内では相当程度各藩による自治が認められていました。このことが最終的には明治維新という政権交代を実現させ日本を救ったということは確かだと考えます。 その後の近代日本の歴史をどう評価するかということは、またこれとは別の問題です。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5116)
>日本をこんな国にしたやつらなのに何故もてはやされてるのですか? 明治維新政府(薩長藩閥政府)の、教育の結果です。 旧佐幕側の藩出身者は、政界に進出する事が困難でした。 嘘か誠か「県名と県庁所在市名を分けた?」事でも有名ですよね。 討幕派は、徳島県徳島市。高知県高知市。(外様) 佐幕派は、愛媛県松山市。香川県高松市。(親藩) などなど。 確かな事は討幕目標としていた「尊王攘夷は、考えてなかった」事ですね。 明治政府は、天皇が政治に関与する事を認めませんでした。 明治政府は、攘夷を止めて欧米に使節団を派遣しました。 結局は、幕末の井伊直弼の政治を踏襲した訳です。 単純に、徳川家から長州藩・薩摩藩・土佐藩などの連合政権に代わっただけでしたね。 明治維新は、近代の関が原だった様です。^^;
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
>日本をこんな国にしたやつらなのに何故もてはやされてるのですか? 天皇を勝手に錦の旗にして、自身の利益のために国を転覆し西洋に魂を差し出し現代日本という奴隷国家を作った元凶ではありませんか? ⇒以下のとおりお答えします。 なるほど、お気持ち・ご趣旨はよく分かります。ただ、薩長の立場からすると、「日本を列強の餌食・支配から救った」という自負心があるでしょうね。両勢力を俯瞰する立場の者(がいるとして)、その眼から見れば、喧嘩両成敗といいますか、両者互角でしょう。「両陣営が、いわば(弁証法の)テーゼ、アンチテーゼとして対立抗争したおかげで、(正反合の止揚として)ジンテーゼ、すなわち、新しい日本が誕生したのだ」と評価することでしょう。つまり、対立があったおかげで、新しい世界が展開したとする解釈です。 もしこれを単なる喧嘩騒ぎや勝敗問題としてのみ捉えるならば、それはえてして怨恨のもととなり、仇討ちや報復合戦を認めることになり、ひいては戦いの連鎖を引き起こすことに繋がりかねません。「ロシア×ウクライナ」や「イスラエル×パレスティナ」の戦争は、その延長上にあると言えるかも知れませんね。大きく出ますが、それは悲しい人間の性(さが)でなくて何でしょう。それこそ、人類滅亡を示唆する病根以外の何物でもありません。一説によると、人類は99.7%の確率で自滅すると言われます。しかし、100%ではない、というところに僅かな望みがあります。明日をも知れない現今、「人類の英知を結集して、残りの0.3%に賭けよう」ではありませんか。 以上、ご回答まで。(後半、少しそれましたが、どうぞ悪しからず。)
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34518)
質問者さんが会津出身の人なら、まあ理屈抜きにそうなりますわなと思います。 でも当時の世界は「植民地にする側の列強国」と「植民地にされる国(地域)」の二つしか存在しなかったので、明治維新をやらなきゃ植民地にされるだけでした。 それに江戸幕府体制はどう考えても時代に合わなかったですからね。その点では幕末の日本と今の日本は似ています。幕末の日本は血統が国を動かしていました。本人の能力が優秀かどうかではなく、国を動かす血筋にある人なのかどうかで為政者が決まっていました。 今の日本も、首相になりたいと思ったら世襲議員じゃないとまずなれない時代になっています。 なお、明治の元勲て伊藤博文を筆頭にほとんどが「元々尊王攘夷派」です。最初は外国人排斥を叫んでいて、イギリス公邸を焼き討ちするなどのテロ活動をしていたのです。 けれど実際に世界を目の当たりにして「あかん。遅れているのはこっちだ」ということに気がついてあっさり開国派になったのです。
- toka
- ベストアンサー率51% (1167/2279)
別にどこの藩が開明的でどこが閉鎖的だったかという問題ではなく、欧米の国力とか経済、軍備に対する考え方が大きく後れをとっていたのは歴史上の事実ですから、あとはいつ、どういう形で欧米の文化を受け入れるかだけの話でしょう。 あの段階で開国した結果「奴隷国家」とやらになったと考える人もいれば、開国しなければ当時の清のように国力はありながら欧米日に国を切り取られかけた結果になったかも知れません。 どこの国であろうがいつの時代であろうが国の体制がどう変わろうが、庶民とは大なり小なりある程度奴隷であることは同じです。
- runi_NGR
- ベストアンサー率32% (333/1029)
個人的意見です。 地元が会津ですが、いまだに結婚相手が薩長の場合、大騒ぎになります。少し前までは新聞に載る程でした。現在では友好関係を築いてはいるのですが・・・ これが歴史であり、これからの歴史を作る我々は更に仲良くすれば、今後のわだかまりもなく、平和になると思います。是非会津にこらんしょ。何か得られるものがあると思います。
- aliceaki
- ベストアンサー率64% (34/53)
あなたの感じている不満や疑問は理解できます。 しかし、歴史的な出来事や政治的な意思決定については、多くの視点や解釈が存在します。それぞれの視点は、その人々の価値観、信念、経験に基づいています。 一部の人々は、西洋化や近代化が日本にとってプラスだと考えています。彼らは、これらの変化が日本の経済的成功をもたらし、国際社会での地位を向上させたと主張します。 一方、他の人々は、これらの変化が日本の伝統的な価値観や文化を損なったと感じています。 これらの視点はすべて、その人々の経験や信念に基づいています。したがって、誰が「正しい」かを決めることは難しく、またそれは個々の視点によるところが大きいです。 私たちは、自分自身の視点を形成するために、さまざまな情報源から情報を得て、それを批判的に考えることが重要です。それぞれの視点を尊重し、理解しようとすることが、より良い理解と対話を促進します。私たちは、歴史や政治について学び、理解することで、過去の出来事から学び、未来をより良くすることができます。それぞれの意見や視点を尊重することが大切です。それらが、私たちの社会を豊かで多様なものにしています。