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刀伊の入寇と藤原隆家について
藤原隆家は、刀伊の入寇の際、公家であるのになぜ軍事指導者としての手腕を発揮することができたのですか?またなぜ藤原隆家と現地の武士団が、刀伊を撃退したにもかかわらず、朝廷は十分な恩賞を与えなかったのですか?
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隆家自身に武芸の心得はなかったようで『大鏡』には「大弐殿(隆家)ゆみやのもとすえも知りたまはねば、いかがとおぼしけれど」と、弓矢のどっちが根元でどっちが先っぽかもわからない素人と書かれています。 ただ、統治能力は非常に優れていて九州の地元豪族を信服させていたらしく、『大鏡』は「まつりごとよくしたまふとて、筑紫人さながらしたがひ申たりければ、例の大弐十人ばかりがほどにてのぼりたまへりとこそ申しか」と並みの大宰府長官10人分相当の働きと評しています。刀伊の入寇は隆家が1014年11月に大宰権帥に就任してから4年半ほど経った1019年3月~4月の出来事であり、そのころには「筑後・肥前・肥後九国の人をおこしたまふをばさることにて、府のうちにつかうまつる人をさへをしこりてたたかはせたまひければ」と『大鏡』に記されているように、九州全域の人を奮い立たせ、大宰府で勤務する文官さえも一致団結して戦うほど、人心掌握に成功していたということだと思います。 隆家に恩賞がなかったのは、隆家自身が恩賞を望まなかったからだと思います。 『大鏡』には「おほやけ、大臣・大納言にもなさせ給ぬべかりしかど、御まじらひたへにたれば、ただにはおはするにこそあめれ」とあり、朝廷では隆家を大納言か大臣に昇進させようという動きがあったものの、隆家が朝廷に出仕しようとしないため見送られたようだとされています。 隆家に大きな勲功があるのは誰の目にも明らかですから、実際、隆家自身が積極的に恩賞を望んだなら、それを阻止することは当時の権力者である道長・頼通父子といえども難しかったでしょう。阻止する大義名分がありません。 ただ、過去に兄伊周とともに道長と激しい政争を繰り広げて出雲権守に左遷された経験をもつ隆家が大臣などに昇進したら、再び道長に目の敵にされることは確実で、今度は何をされるかわかったものではありません。身の安全を図るためには出仕をサボって恩賞を自らふいにするのが最善の策だと判断したのではないでしょうか。 <参考> 『大鏡』道隆伝における隆家の位相 https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000000146/5-442.pdf
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- nagata2017
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兵部卿という役職の経験があり 赴任した大宰府では善政を施し、九州の在地勢力はすっかり心服していたから。 帰京後の朝廷において、刀伊を撃退したことに対する功績により隆家の大臣・大納言への登用を求める声もあったが、帰京後の隆家は内裏出仕を控えていたため昇進の沙汰はなかった。
- jkpawapuro
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当時は藤原の道長頼道の絶頂期です。 家系図を紐解くと、 藤原兼家 →諸長子道隆→隆家 →五男道長→頼道 隆家と頼道が従妹ですね。 道長が長命ゆえ道長頼道が権勢を誇りましたが、家格は頼道より隆家が少し上で政敵にあたるのです。だから隆家家(藤原北家中関白家)を抑え込むために恩賞を与えなかったのでしょう。 そういった血なまぐさい時代ではなかったとはいえあまりに強力な軍事力を見せた隆家の軍事力をさらに増すのは怖かったでしょう。
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