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源義経=チンギスハンという仮説の信憑性
私がまだ若かりし頃、朝のラジオで源義経が平泉から逃げてモンゴルへ行き、チンギスハンになったという仮説が放送されていました。この仮説の信憑性について、肯定される方、否定される方のご意見をいただきたいです。出来れば根拠もつけて説明して下さい。
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たまたま二人の生まれた年が近いことやいくさ上手だったことなどから、義経の不遇の死に同情した義経びいきの民衆が作り上げた「義経生存説」の延長線上にある伝説にすぎないと理解するのが賢明だと考えます。義経=チンギスハン説には同時代の史料による具体的な裏付けが皆無だからです。 仮に同一人物説をとるなら、チンギスハンの前半生をどう説明するかということになります。義経が平泉で死去したのが1189年だから、モンゴルに渡航できるのはそれ以後です。ところがチンギスハン(テムジン)は両親の名前もわかっていて、若くして父を失い母に育てられたのちに次第に勢力を伸ばし諸部族をまとめていったことなども伝えられています。テムジンの若い頃の動向には不明の点が多いとしても、何か得体のしれない人物が外国からひょっこりやってきてモンゴルを統一したとはされていないのです。 なお伝説上の義経はチンギスハンだけでなく金の将軍になったり清の始祖になったり大活躍しています。江戸時代には大陸にわたった義経の子孫が清朝を興し、「清和源氏」の一字を取って国号を「清」としたという説さえ広まっていました。
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- SI299792
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文献に書いてあるだけなので、チンギス=ハンが本当の子でなく、養子である可能性は0ではありません。しかし、小さい頃養子になったのならともかく、大人になってから養子(後継者)になった。さすがにこれが事実なら文献に残ると思います。(そもそも、後継者になれる可能性はないと思います) もし、義経がチンギス=ハンだったら、日本に戻り、頼朝打倒をしようとするのではないでしょうか。それだけの力を得たのですから。 源義経=チンギスハンは、やはり信憑性はありません。誰かが半分冗談で言いだしたのが、広まったとしか考えられません。
- ishi_saya
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すでに、「出生」について書かれている方がいますが、しかしそれは「文献は正しい」という仮定に基づいたものです。 源義経とチンギス・ハーンとは、ほぼ同年代のようです。怪力で戦いに長けていたことや、それにも関わらず他人から慕われる性格だったことも共通しているようです。そういうことから、同一人物説が出てもおかしくはないかもしれません。 ただし、私には信憑性は分かりませんが。つまり、否定も肯定もできないということです。
- saramanda1
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>出生が明らかということですね。 源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代の日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 義経のほうも出世が明らかですのでチンギスハンになり替わった可能性は0です。
- saramanda1
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チンギスハン モンゴル系部族を統合してモンゴル高原とその周辺を征服し、1206年にハン位に即位してモンゴル帝国を樹立した。さらに、金を攻撃、西夏、ホラズムに遠征、中央アジアに進出して大帝国の基礎をつくり、1227年に死去した。 チンギス=ハン(幼名テムジン)は1162年、モンゴル部族のボルジギン氏の首長エスガイ(イェスゲイ)を父、ホエルンを母として生まれた。 この時点でおかしいですね。
お礼
出生が明らかということですね。ありがとうございます。