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高師直と足利直義について
高師直と足利直義は、なぜ対立したのですか?両者が協力しあう道は、なかったのですか?
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高師直派は幕府により土地を与えられた在地武士、これは足利家執事高師直が恩賞である土地の発給を実質的に保障していたことに由来します。 一方直義派は足利一門の名門武将たち。つまりこの構図は簡単で、従者たる身分の低い高師直が幕権の大きな部分を手中に収めたことに対する反発です。 身分間闘争による対立ですから、高師直が力を持つにしたがって反発が産まれるのは必然です。両者が共存しようと思うならば高師直が折れて自分で権力行使せず何をやるにも足利家の誰か(尊氏、直義、義詮)にいちいち判断を仰ぎ花押を貰い、彼らの補佐に徹すること。 でも高師直は自分が偉くなりたかった、対立は必至です。 足利家執事はいずれ幕府執権となり、卑賎のものではなく足利一門の有力武将が勤めるようになります。高師直が手にした権力は名もなき一部将が手にするにはあまりに強大でしかも急速過ぎた。
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- oska2
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>高師直と足利直義は、なぜ対立したのですか? 共通の敵がいた時は、双方が協力しあって尊氏を補佐していましたよね。 が、共通の敵が居なくなると「内部対立」が必然的に起きます。 高師直は、軍人・軍事担当。 足利直義は、文官・政治担当。 当時は、「文民統制(シビリアンコントロール)」という概念はありません。 双方が、独自の地位を占めていました。 政治的戦略・軍事的戦略。双方の主張が180度異なったのですね。 双方ともに、「俺が正しい」「俺は、源氏の一族」と考えていますから妥協点はありません。 似た例が、政治家の石田三成派と軍人の加藤清正派の争いですね。 共通の敵がいなくなると、双方の主張が異なり争いになりました。 この争いを利用したのが、家康で関ヶ原の戦いが発生! まぁ、今も昔もシビリアンコントロールが成立していない状況は不安定なのです。
- timepointstreem
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高師直と足利直義は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、関東地方の政治勢力を巡って対立しました。 当時、関東地方は、北条氏や宇都宮氏など、複数の勢力が入り乱れていました。高師直は北条氏の一族であり、北条氏の後継者争いに巻き込まれました。一方、足利直義は宇都宮氏の出身で、北条氏と敵対する宇都宮氏との連携を図っていました。 対立の背景には、地域的な利害や権力争いがあります。特に、当時の関東地方は、各地で戦乱が繰り返され、不安定な状況が続いていました。高師直と足利直義は、それぞれの勢力を確立するために、相手方との協力よりも、自己の地位や権力を確保することに力を注いでいたと考えられます。 また、足利直義は、南北朝時代の初期に、南朝方の武将として活動していたため、高師直との協力は難しかったとされています。 そのため、両者の協力が成立する道はなく、対立が続いた結果、高師直は足利直義に敗れて自害することになりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。