締切済み 足利と新田はなぜ別? 2015/10/11 17:50 太平記を読んでいたのですが 足利の分家の斯波や吉良や今川は足利の一族として動いているのに、足利と新田は同じ一族として動いていないのはなぜでしょうか? みんなの回答 (1) 専門家の回答 みんなの回答 ithi ベストアンサー率20% (1973/9604) 2015/10/11 18:26 回答No.1 tazuneruman さん、こんばんは。 実は吉良氏や斯波氏、今川氏は足利氏の傍流である親族なのです。だから、一族の総領である足利尊氏の下知を受ける立場にあるのです。しかしながら、新田氏は源義家の三男義国の長男義重を祖としていますが、足利氏は義国の次男義康の子孫なのです。つまり、新田氏と足利氏は同祖なのです。だから、新田氏が没落していても、足利氏とは血筋的には対等なのです。だから、新田義貞は足利尊氏から下知を受ける立場ではないのです。 詳細は下記URLを参照ください 足利氏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B0%8F 新田氏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%B0%8F 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 1 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 足利一門 吉良家について 南北朝 室町 戦国期、足利一門吉良家は足利将軍家に次ぐ高家として扱われてきました。 今川家は三番目。 今川家に関しては、九州探題・今川了俊や東海一の弓取り・今川義元を輩出していますが、吉良家では目だって活躍した人物(初代・長氏くらいか?)を知りません。 にもかかわらず、何ゆえ重く扱われたのでしょうか? 太田道灌も武蔵吉良家当主(世田谷殿)には敬意を表しています。 なぜ、吉良氏は、天下を取れなかったか? なぜ、吉良氏は、天下を取れなかったか?今川氏、畠山、細川、一色など他の足利一族に比べてザコすぎる。 徳川が強すぎるから? 新田義貞はなぜ強いのか? 新田義貞は源氏ですが、それほど家柄は高くない二流武士です。 そんな彼が、谷と海に囲まれ難攻不落と恐れられる要塞都市鎌倉を いとも簡単に陥落させてしまうなんて、どんだけ強いんでしょうか? 当時、鎌倉は弱体化していたとは言えど、そう易々と負けるとは 意外に思えます。 新田義貞は、足利尊氏・楠木正成に比べると知名度はいまひとつで それほど強いイメージもないんですが、新田義貞はなぜこんなに強かった のでしょうか? 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 足利家の分家 室町時代の幕府の将軍足利氏の分家の渋川氏は何故、管領の地位についた事が無いんでしょうか?お詳しい方、お答えください。 西三河の強さ、凄さの源は、何でしょうか? 足利氏(細川、今川、一色、吉良、仁木)→徳川家康→トヨタ自動車。西三河(矢作川流域)の強さ、凄さの源は、何でしょうか? 足利幕府の守護大名の影響力の大きさについて 1)なぜ足利将軍家を圧迫するくらいの大版図を領有し得たのか 2)なぜ細川・斯波・畠山の三家のみ管領家と成り得たのか 3)なぜ山名氏だけが「六分の一殿」と称されるくらいの大版図を領有し得たのか 以上三点、なるべく簡潔な回答、お願いします。 武家と公家 足利尊氏と新田義貞が鎌倉幕府を倒す ところを勉強していました。 すると 公家ばかり大事にされるのは気に入らん 武士には恩賞が少なく軽んじられている とありました 足利尊氏と新田義貞は公家ですか?武家ですか? どっちがどっちなんですか? 教えてください。 三河守から征夷大将軍へ 鎌倉時代、足利家と三河国は因縁が深く代々三河国の守護職を勤め、矢作(岡崎)の地は足利氏の一大拠点とも言える土地でした。又、細川・吉良・今川・荒川・仁木等の足利一門も三河一円に拡がりそれぞれの地名を姓とし繁栄しました。尊氏の代には六波羅探題を滅ぼし天下を取りました。 戦国期に入ると三河国は足利一門に代わり松平(徳川)家が勢力を伸ばし、徳川家康の代に岡崎を拠点として三河を統一、東海を制し遂には天下を取りました。 これは単なる偶然でしょうか?それとも三河岡崎の地は天下人を輩出し易い条件が揃っているのでしょうか? 清和源氏について こんばんは。 源平時代の源氏で「源」と名乗っていたのは嫡流だけのように思います。(間違ってたらごめんなさい。)でも武田、木曽、足利、新田などそれぞれ土着した土地の名前を使っていますね。源氏のネームバリューは絶大で、領国経営にもにらみが効いて何かと都合がいいのはずなのになぜ「源」を名乗らなかったのでしょう?本流の一族しか「源」を名乗ってはいけない決まりでもあったのでしょうか? 源氏と平氏 清和源氏と桓武平氏は2大軍事勢力ですが、平清盛と源頼朝に至る源平合戦までの経緯と両者が滅んでも傍流は戦国時代まで続きました。その盛衰を見て両者で何が違っていたのでしょうか。 源平合戦までは源氏の武勇伝が多く、平氏の武勇伝は少ないのです。名前だけ挙げると、源氏の頼信、頼義、義家、義綱、為義、為朝、義朝、義仲、義経、頼朝。平氏の将門、貞盛、忠盛、清盛。 源平合戦の後では平氏の数が圧倒的に多いのです。源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。 しかし、その後に大名になった平氏が少ないのです。源氏は足利、新田、佐竹、今川、武田、大内、土岐、斯波と大名になり、平氏の北条、千葉、三浦、伊藤、桑名はいずれも滅んでいます。不思議だなあと思っています。 旗本について 大名の分家で、独立に朱印状を貰っていない本家の内分の支藩は毛利・鍋島の分家を代表に、蔵米支給の○○新田藩主など例が多いですが、大名家の分家として立家した旗本で、本家から分知された訳ではなくてあくまで本家の内分での旗本家というのは結構例があるものなのでしょうか? 関東公方 戦国時代には室町の足利将軍家の他に 関東にも公方の足利家がありました 恐らく室町の足利家の分家でしょうが 関東公方足利家は何のために関東にあったのでしょう? 公方とは一般に将軍の意味でしょうか? また 関東管領だった上杉憲政は関東足利家の家臣で管領職に任ぜられていたのでしょうか? それとも室町幕府から関東管領を任されていたのでしょうか? 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 足利尊氏や新田義貞について 分かりやすく、書かれている本(マンガでも可)があればぜひお教え下さい。 家紋を変える 江戸時代、総本家名主が大名家から褒美で家紋をもらったので、たくさんいる分家まで家紋を合わせる形で家紋を変えました でも、家紋を褒美で使用許可をもらったのは、総本家ですが、分家まで大名家の家紋を使っていいのですか? 分家も一族ですが、ダメなような気が・・ 日本史 1559年 足利義輝、越後の長尾景虎と尾張の織田信長を京都に呼んで会見を行った。呼ばれなかった、駿河の今川義元と甲斐の武田信玄は激怒した。 この事が、川中島の合戦と桶狭間の戦いの原因の1つになった。 というようなことを、学校の授業で習ったのですが、これは本当のことなのでしょうか?Wikipediaには、それらしきことは書いていなくて… また、会見の内容や、なぜ今川と武田は呼ばれなかったのか、知っていれば教えていただきたいです。 鎌倉幕府、滅亡について。 (1)鎌倉末期に後醍醐天皇、足利高(尊)氏、新田義貞、楠木正成などが挙兵した際、新田義貞が鎌倉での直接の合戦の兵の数が60万とありますが本当ですか? (2)又、その前の千早城の戦いでは、鎌倉幕府軍は100万とありますが、それも本当でしょうか? 違うのであればそうした水増しした数を表記する理由は何故でしょうか? 回答、お願いします。 名字にも通名はある? 自分の住んでいる地域の豪族を調べていたところ、他の豪族は「山田太郎」や「山田」のように書かれているのですが、その中に「谷一族ら」と書かれている人がいました。現在この地域に「谷」と名乗る家は1軒のみですが、「谷川」や「谷西」 「谷中」と名乗る家が2軒ずつほどあります(これらが谷家の分家なのかは分かりません)。当時は名字の最初に「谷」とつく人々を「谷一族」と呼んだのでしょうか?ちなみに「谷川」や「谷西」 「谷中」にはそれぞれ本家があり、50年ほど前まで屋敷があったそうです。自分は谷西の分家です。 長々と書きましたが、結局聞きたかったのは 「本家から分家ができる時、分家が本家の名字の文字を取って、新しく名字を名乗ることはあったのか?」ということです。稚拙な文章で伝わりにくいかもしれませんが ご教示お願いします。時代は戦国時代で、地域はそんなに広くないです。 世襲議員ばかりになると経済悪くなりますよね? 世襲議員は一族の代表者だったりして、昔で言えば平家とか藤原氏の代表者として国会で立法しますよね。 本来はフラットな利益が、世襲議員の手によって、自らの平家や藤原氏、足利氏などに手厚く分配されるようになりますよね。 世襲議員が増えると普通の人は経済悪くなりますよね? そりゃ世襲議員の一族は潤うでしょうけど。 皇居に楠木正成像がある理由? この前皇居に行ったら楠木正成像があるのはなぜでしょうか?像の周りにも説明書きがなかったのですが。天皇に忠誠を尽くして犠牲になったからでしょうか? そういえば、足利尊氏、新田義貞よりも楠木正成の名前が知られていない気がするのですが・・・。気のせいでしょうか。「この時歴史が動いた」で、楠木正成について詳しく知りました。 室町時代、将軍の正室は何故日野家から? 室町時代の将軍、足利家の正室は義満以降ほとんど公家である日野家から嫁いできていますが、何故公家としては家格の低い日野家からだったのでしょうか? 当時の将軍家は政治的にも絶大な権力を持っていたし、義満などは公家最高の地位である太政大臣にまで上り詰めているぐらいですから、御台所が日野家出では家格がつりあわなかったように思います。 何故、五摂家や宮家、あるいは幕臣として重要な地位にあった斯波、畠山、細川といった家から御台所をむかえなかったのでしょうか。 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など