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本の一文には理由に相当する文がないこともあるのか?

本に書かれてる文章は一文一文筆者が意図を考えて書いていると信じるのは間違ってるんでしょうか? 本を読んでいると、なんでそうだと言えるのだろうという文にあたることがあるのですが、その理由もちゃんと文章中に書いてあるか探してみても見つからないことも多いです。 たとえば宮沢賢治の永訣の朝を引き合いに出して感情に対してありあわせの言葉で名付けてしまうのではなく行動の記述を通じて客観的に記述することの大切さが説かれている文があるのですが、そこで「客観的に感情を記述するによって賢治は救われる。賢治が救われることでトシもまた救われる」みたいなことがことが書いてあるわけです。 賢治が救われることはその文章自体がが客観的に感情を記述することの大切さを説いていることからそれとなく分かるのですが、なんで賢治が救われるとトシが救われるのかがまるで分からない。それで文章をくまなく見てみるがやっぱりどう見ても理由にあたる記述がなかったりするんです。 確かに明らかに「なぜなら~だから」という構文などになっているような何かに対する理由を述べた記述にまでは、その理由が無かったとしてもとりあえず不満はありません。だってそうすると無限背進に陥りますから。 しかしそうではない文についてはその文に関連した理由に相当する文があるのではないかと思います。 受験国語では「傍線部について、なぜそうだと言えるのか説明せよ」式の問題がありますが、あれが限られた部分について問うているのはまず試験時間の制約上がありその他種々の制約や事情のせいでそうなっているだけで、原理上は文章を構成する「なぜなら」構文等を除く全ての文に対して同じ問いを設定することは可能なのだと思うわけです。そして受験国語の鉄則としては答えは文章中にあることになっているのですから、なぜそうかとという問いにも必ず問題の文章中から解答になるものを引っ張り出せることになるわけです。そういう問いが全ての文に対して立てれるということは、ということは全ての文には理由に相当する文が存在することになるわけです。 あるいは受験のなかでそういう問いを問われ続けるせいで、まとまった文章には全ての文に対して理由に相当する文が存在するはずなのだとう信念が形成されてしまったとも言えます。 せっかく本を買ったのに、一文でもなぜか分からないところがあったらそれを放置してしまってはせっかく本を読んだ意義が減ってしまうと思って、いままでずっとそうしてきたのですが、実は本当に特に理由もなく筆の勢いでなんとなく書いてしまったという文も普通にあるものなのでしょうか? 私は答えのない問いを自分で立てたあげく探していただけなのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

みんなの回答

  • gesui3
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回答No.6

> 解を見つける作業を徹底して鍛え上げているなら、この文の理由や言い替え表現に相当するものこの本の中のどこをどう探しても存在しないということも自動的に嗅ぎ分けられるようになってるんじゃないかなと思う訳です。 その通りです。 > 限られた(偏った)本で鍛え上げた読解力で全ての本の全ての文において解があるあるものなのか無いものなのか判断できるというのはやはりさすがに無理がある考えなのかなとも思う訳です。 いいえ、違います。 限定的な教材で勉強しようとも、読解力自体が育っているのであれば、「この中に解は無い」ということも、ほぼ分かるはずです。付けているのは眼に見えない学力です。それが育てば、受験学力にも、実社会の読解力にも、どちらにも通用すると思われます。 例えて言えば、粗食でもある程度食べていれば栄養は摂れ体力も付いているようなものです。 問題なのは、 必ず正解があるはずだという思い込みと、その正解が「一文」であるという根拠のない歪んだ信念です。解が、部分や段落や、場合によっては文章全体であることもあるからです。また、本当に無いこともあります。 〔註〕文 =1文   。がある所まで    文章=(基本的には)複数の文の集合体

  • gesui3
  • ベストアンサー率50% (95/187)
回答No.5

NO.2、4です。 最後の一文を撤回します。 今回のいくつかの質問は最初の質問と密接につながっていますので、 まだ疑問が残れば、どうぞ更問いをなさってください。 分かる範囲でお答えします。

dorawii
質問者

お礼

ありがとうございます。実はまた疑問が派生して浮かんできたところです。 受験に出て来る国語の問題が必ず文中にあるように作られてるなら、言い換えれば前述の法則にあてはまるもののみ受験の問題に採用されてるとすると、ひっくり返してこんな問いが浮かんできました。 「大学受験レベルの国語が安定して満点取れる程度読解力があるなら、ある本のある記述についてその記述の根拠がその本の中に有るか無いのかも判断できるようになってるものなのか?」ということです。受験国語では多岐選択型の問題でさえ数学でいうような「解無し(他の選択肢のうち適するものが無い)」という答えを求めさせることは無いわけですが、でもそうやって解を見つける作業を徹底して鍛え上げているなら、この文の理由や言い替え表現に相当するものこの本の中のどこをどう探しても存在しないということも自動的に嗅ぎ分けられるようになってるんじゃないかなと思う訳です。 でも受験の枠を取っ払ったあらゆる人が書き手の広大な書物の世界においては、限られた(偏った)本で鍛え上げた読解力で全ての本の全ての文において解があるあるものなのか無いものなのか判断できるというのはやはりさすがに無理がある考えなのかなとも思う訳です。解があると実はこじつけに解を見出してるだけなのに自覚がなかったり、逆に解がないと早とちりしてしまったり。どうなんでしょうか?

  • gesui3
  • ベストアンサー率50% (95/187)
回答No.4

> その法則にあてはまるものだけが受験の文章に採用されてるということなんですかね? まさに、その通りです。 そういう文章を探すのに出題者たちは大変大変、苦労しています。 理由に当たる「一文」が無い場合は、「部分」「段落」を選べ、というふうな設問にします。 それも無い場合は、「筆者の考えに最も『近い』と思われるものを次の中から選べ」という設問にします。(まあ、出題者が原筆者に成り代わって「一文」を考えるわけです。この出来が悪いと、いろいろな論評で叩かれます。「出題者は頭が悪い」と。) > 説得力とか気にしない物書きも普通にいるんでしょうか?? それはまた別問題です。 一般の書籍では自由に書いていますから、説得力よりも、エンタメ性を重視して書く人から、自分のガス抜きで書く人から、人さまざまです。 いま読んでいる明治時代の講演録などは、話に尾ひれがついて脱線しまくりですが、そこが魅力です。どうしてここまで飛躍するんだとか、物言いがとても愉快だとか、この人の著作を読み漁って深く探ってみようとか、ファンを誘導する働きもあります。 何も簡潔さや完成度だけが、良さではありません。世の中は色々なのです。 なお、関連質問は別項を立てていただければ、一問一答で回答しやすくなります。

  • head1192
  • ベストアンサー率20% (161/785)
回答No.3

文章家ならムダな文は書かないように心掛けている。 言い換えれば「どの単語、文にも意味がある」。 よい短文の三原則に「簡潔、明快、感銘」がある。 ムダがある文は「簡潔」ではないからである。 簡潔でない文は明快さも損なうし、感銘を与える文にもならない。 プロの物書きなら、書きたいことは100も200もある。 削りに削って規定内の3とか5とかに収める。 ムダの入る余地はない。 「交響曲という壮大な物語の中で、ブラームスは無駄な音を一つも使ってないのですよ」 というセリフがあるが、作曲家も文章家も本質的には同じだろう。 あと、読解は個人のレベルに左右される。 俺も小6から繰り返し読んでいる本がある。 もう100回は読んだと思うが未だに「こういうことを言っていたのか!」という発見がある。

dorawii
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 100回読んで100回発見があるというのは極端過ぎていいことか悪いことは私には分かりかねますね。 それは筆者が言葉足らずだから?もし筆者とあなたでマンツーマンでとことん著書について質問できることになったら今まで長い年月かけて少しずつ発見されたことは全てその場で氷解するが、そういう機会がなかったからいまのようなことになっている、でもそんな機会を望むのは非現実的なない物ねだりだから、そんなことを考えてもしょうがいないみたいなことになるんでしょうか。 そもそも上のようなことを言う背景には対面の会話が本を通じて筆者と会話するより絶対的に優位という考えが私にあるんだと思いますがそれも間違ってるのかもしてません。口頭に対する理解力と文章に対する読解力は本質的には変わらないかも、とも思いますから。

  • gesui3
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回答No.2

おっしゃる通りです。 > あるいは受験のなかでそういう問いを問われ続けるせいで、まとまった文章には全ての文に対して理由に相当する文が存在するはずなのだとう信念が形成されてしまったとも言えます。 まさに受験学力の困った面です。全ての問いには正解があるという錯覚に若者を導いてしまいます。受験エリートが必ず有為の人材ではないことも、この辺にも原因があります。(このほか、知力だけが重要ではないという要素もあります) しかし現実世界も、現実の文章も、答えが無いこともあるし、 あっても複数の別解があることもあるし、 どれが一番良いともいえないこともあり、 実に複雑怪異なのです。 問題作成者として言えば、答えが一つだけであり、 しかもそれが文中にあるのを探すのに、たいへん苦心します。 しかもしかも、それが筆者の主張のポイントに関わるようにしたいので、相当な重労働であることをお察しください。 作問者も大変なのです。

dorawii
質問者

お礼

回答ありがとうございます。全てに答えに相当する文があるはずだというこの考えには、受験国語では筆者は主張するにあたってただ投げっぱなしに主張するだけでなく、その主張に説得力を持たせるために、根拠になる引用をするなり理由にあたる文も同じ文章に必ず書いてるんだと言われてきたことも影響してると思います。その法則にあてはまらない本も普通にあるというか、その法則にあてはまるものだけが受験の文章に採用されてるということなんですかね?説得力とか気にしない物書きも普通にいるんでしょうか??

  • iijijii
  • ベストアンサー率55% (580/1047)
回答No.1

何度か推敲しているうちに書いたつもりが抜けてしまって、校正もそのまま通ってしまうなんてことはよくあります。 どうしても気になる場合は出版社の編集部 気付 XX先生 宛にファンレターの体裁を取って質問を送りましょう。 返事が帰ってくる可能性が高いです。

dorawii
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私が読んでいたのは書かれたのは比較的最近でも著者の年齢が絶対的に高齢なので今生きているかはなんとも言えないですね…。 一つの方法としては今後その方法も検討するようにしてみます。 ただ贅沢を言うようで恐縮ですが、私が目指しているのは「人から自立して情報を得るための読解力」なんですよね。いつなんどきも聞ける人がいるとは限りませんからこの文章は何を言っているのかという疑問に対して自分で解決する力を身に着けたいものです。

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