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国内の城跡で思ったこと。

城付近の街の中に外濠跡という標識を見かけることがあります。 そんな時あたりを見渡してあらためて築城時の壮大さを感じます。 ところで、城の石垣から外濠までかなりの面積がありますがその場所に家を持っていのは城で仕事をしている人だけですか。 それともお殿様の家族や親戚だけですか。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.2

一般的に内堀は「最終防衛ライン」で、ここを突破されれば落城となります。 外堀はそこから内側がその城の範囲内になるかと思います。 ただこれを例えば江戸城に当てはめると、外堀の内側は今の下町もその範囲に入ることになります。我々が「江戸の町」と聞いて想像するのは外堀の内側で、外堀より外側は江戸市外と考えてもそんなに間違いではないと思います。 名古屋城なんかは我々が内堀のイメージを持つ水堀は実は外堀になります。内堀は本丸を囲む空堀ですね。水堀があるのが北面と西面で、東面と南面には空堀があって、そこから内側が二の丸。東と南はさらに三の丸があって、その周囲には空堀と土塁があったといわれています。だから名古屋城は外堀から内側が「名古屋城」といえますね。 大阪城は本丸を取り囲む内堀の外側に外堀があり、さらにその外側にも堀がありました。大坂冬の陣での攻防戦があったのは、最外側のいうなれば外外堀になります。大阪城はこの外外堀の南側に弱点があったので、真田信繫(幸村)があの有名な真田丸を作って補強しました。よく「家康は和議で外堀だけでなく、内堀も埋めた」といいますが、これ正しくはその外堀は外外堀で、内堀は今の大阪城公園の外堀に該当する場所になります。 よくいわれることですが、現代の我々が目にする「お城」というのは戦国時代が終わった後の江戸時代に作られたものなので、実戦を経験したお城はほとんどありません。 実戦を経験したお城は、冬の陣夏の陣の大阪城と、戊辰戦争の鶴ヶ城(若松城)、そして西南戦争の熊本城だけになります。銃と大砲の時代の西南戦争になっても防御拠点としての役割を全うした熊本城はさすが加藤清正といえると思います。

1buthi
質問者

お礼

ありがとうございました。 外堀の付近は、現在道路やビルや家がありますが 今に始まったことではなくて昔から町民なども住んでいたのですね。

その他の回答 (2)

  • D-Gabacho
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回答No.3

内堀の外側から外堀の内側のエリアは、家臣の屋敷になっていることが多いと思います。 江戸城の場合だと旗本や親藩・譜代大名の屋敷です。外様大名の屋敷も一部まじっていますし、わずかながら町屋や寺院もあります。 幕府が諸藩に命じて城下の地図を作成・提出させた正保城絵図が公開されていて、各地のいろんな城下のようすを見ることができます。 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0300000000/0305000000/00 江戸城下のようすは江戸切絵図で見ることができます。 https://map.goo.ne.jp/history/edo/ ニ、三ノ一、三ノニあたりを見ると外堀の内側のようすがわかると思います。

1buthi
質問者

お礼

ありがとうございました。聞いたことのある人の屋敷跡を地図の中に見ると貫禄がありますね。

  • t_ohta
  • ベストアンサー率38% (5238/13705)
回答No.1

お城の設計思想にもよりますが、総構えのお城の場合は城下町を含めて堀や土塁で囲んでお城の範囲としていましたので、一般の町民も城の中に住んでいた事になります。

1buthi
質問者

お礼

ありがとうございました。理解できました

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