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茶々 寧々

こんにちは。 豊臣秀吉の正室 寧々(高台院) 豊臣秀吉の側室 茶々(淀殿) おふたりとも現代にもいそうな可愛らしいお名前ですが、繰り返す名前は、当時としては珍しいお名前だったのでしょうか。 特に茶々は妹は初、江と特に可愛らしい名前ではないです。

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  • D-Gabacho
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回答No.2

源義朝の乳母に摩々局という人がいます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E3%80%85%E5%B1%80 また、東京大学史料編纂所のサイトにある大日本史料総合データベース、古文書フルテキストデータベースで検索したところ、奈々局(七々局)とか阿茶々(秀吉の側室とは別人で名字は三善)という女性の名前が出てきました。 繰り返す名前も、さほど珍しくないものだったかもしれません。 https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/

sora_iro1881
質問者

お礼

ありがとうございます。 摩々の局、可愛らしい名前ですね! 『お』を付けるとお摩々?これは可愛くないですネ。 当時のキラキラネームかと思いました。 当時は、呼びやすいのがいちばんだったのかもしれませんね。二文字だと呼びやすいです。

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その他の回答 (1)

  • gunsin
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回答No.1

戸籍謄本など無いのですから、調べようがありませんので、珍しい 名前かどうかは解りません。 小倉百人一首で見られるように、作者が女性の場合は、名前は表記 されず、清少納言、和泉式部などの様に、父親、夫、子息の役職で 表記されます。 万葉の時代は、男に名前を教える事は、今夜、私の家に来て良い ですよ、との、結婚承諾の意があったからです。 万葉時代の風習が永らく続いていたと思われます。 ここからは、個人の勝手な推察です。 女性の名は、漢字一文字が多い様に思えます、公家や武家では、 日野富子の様に、「子」を付けて、二文字にするケースが多いです。 一文字だと、語呂が悪いので「お」付けて、呼ぶように、なったと 思われます。 秀吉の手紙では「お寧殿」の表記が多いと、歴史学者で言って いる人がいますので「寧」の一文字だったのかも知れません。

sora_iro1881
質問者

お礼

ありがとうございます。 名前を教えるのは、OKの意味があったのですね。 あの時代は、夜這い=結婚のように性に関してはオープンだったのですね。 『子』には、姫という意味もあるとか。 しもじもの者は付けられなかったとか。 そうですね、御寧と呼ばれていました。

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