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関白秀次の一族皆殺しは淀君がさせた?
関白秀次の一族皆殺しは淀君がさせた? 最近、京都旅行をして、たまたま 関白秀次がまつられていたお寺の中に入りました。河村瑞賢が 建立したとありました。 そこで、関白秀次の一族が皆殺しにあったとありました。 関白秀次だけ殺すのならわかりますが、正室、側室、子供まで殺す とは、淀君の秀吉に対する勧めなのかなと思いました。 一緒に旅行していた娘もショックを受けて秀吉に対する考えに 変化が生じたようです。 私の単なる直観について、詳しい方何か教えてください。
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秀次の関白解任、切腹、それに続く家族皆殺しについては、 * 豊臣政権の中核であり、俗説では「秀次追い落としの中心人物」とされる石田三成が秀吉に「秀次様は無実であり、豊臣政権にとってかけがえのない方である」と秀吉を諫めている事実があり、秀次の抹殺に賛成していた者の存在は知られていない。 豊臣家子飼いの側近武将(石田三成など)、外様の諸大名(徳川家康など)、公家、僧侶(有力寺院の僧侶はかなりの社会的影響力を持っていました)など、 「秀吉に影響力をもたらせる者全員が、秀次の抹殺に反対」 であったと考えて良いでしょう。 * 秀吉が、子供が生まれないと考えて甥の秀次に関白位を譲った後、淀殿が秀頼を産んだために 「秀頼の将来のために、邪魔者の秀次を抹殺しなければならない」 と考えて、そのような行動に及んだと考えられる。 『淀殿が秀吉をそそのかした』ということを直接に示す、あるいはそういう風評の存在を示す史料の存在は聞いたことがありません。ただし、淀殿が母親として秀頼の将来を案じるのは自然なことですので、記録に残ってはいませんが、淀殿が秀次の抹殺に賛成だったことはあり得ます。 * 以前の質問 「豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2622758.html のNo2で私が回答していますが、豊臣秀次は「2代目」として不足のない器量の持ち主であり、秀吉から関白位を継承して武将・公家・僧侶などからその権威を問題なく認められていました。「殺生関白」という汚名は、秀次と家族の抹殺を正当化するためのフィクションと考えるべきでしょう。 史実において、秀吉は1598年に没しましたが、その後も秀次は関白として問題なく豊臣政権を運営したはずです。秀吉が構築した官僚機構が秀次の統治をサポートしますし、秀次というトップがはっきりしている以上、「豊臣政権の内部での、文官(石田三成など)と武官(福島正則など)の対立」なども起こりません。 「五大老・五奉行」などという「集団指導体制」は、秀次が抹殺されて、秀吉死後の豊臣政権が「トップ不在」に陥ることが確実であるために苦肉の策として計画されたものです。 当然ながらそのような「集団指導体制」は機能せず、徳川家康による権力掌握、それに反発した石田三成らの挙兵、関ヶ原の合戦、その結果としての徳川家への政権移動が生じました。 上記のようなことは秀次が関白として健在であれば全く問題にならなかったことでしょう。 * 秀次とその家族の抹殺によって利益を得た者は、強いて言えば「徳川家康」です。 ただし、家康がこの行為に関与していたと判断できる史料は全くありませんし、状況としてもそのような行動はありえません。 「史料には残っていないが、淀殿が関与していた可能性はある」 「家康が関与していた可能性はない」 と考えます。 * 秀吉は、ご質問のように淀殿にそそのかされたのではなく、結果として最大の利益を得た家康にそそのかされたのでもなく、『自らの最悪の判断によって』秀次とその一家を抹殺し、結果として豊臣政権を一代で終わらせたと考えられます。
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- astute_2wd
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朝鮮出兵の行き詰まりで諸国の大名達の間にも秀吉の政策に対する不満が広まっていて、秀次と彼等が結託してクーデターを起こす危険性があったため裏切られる前に先手を打ったという見方もありますね。 実際、事件の後、秀吉は秀次と親しかった伊達政宗や最上義光などの大名達も彼と一緒に謀反を企んだとして取り潰そうとしていますし(家康が取り成したためほとんど潰せませんでしたが)。
お礼
有難うございます。
当時は一族郎党皆殺しというのは 敵対する勢力、反逆者への制裁としては普通にありましたから、 ・秀吉が独自の考えで行った ・淀殿が秀吉にすすめた ・淀殿が秀吉に強く申し入れた など、どれもその可能性があり、また否定できるものではありませんのし、 これに関しては「ごく私的に言った言わない」という 歴史の資料に残るものではありませんから、 事実のほどは誰にもわかるものではないと思います。 子供に関しては、平家が源氏を討伐した時に、 温情で頼朝や義経を幽閉としたため、後に平家滅亡の遠因になった ということからも後世に禍根を残すという例もあります。 やはり、一族郎党禍根を残さず。というのが当時の基本ではなかったか と思います。 秀吉に関しては、朝鮮出兵の強行など、絶対権力者となってから、 人格が変わった、狂ったのではないかというような、表現が そこかしこでみられますので。あながち、いい面ばかりではない。 というのが正解だと思います。
お礼
有難うございます。 秀吉自体がおかしかったのですね。
お礼
有難うございます。 やはり年をとると判断力がおかしくなるのでしょうか。