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江戸時代の早馬

赤穂浪士などの物語りを読んでいると、早馬で赤穂まで3日で行ったなどという記述があります。そこで質問なのですが、駅に着いて次の馬を乗る間に、料金を払ったのでしょうか?そうすると、あの早馬に乗った人は、ずいぶん、お金をジャラジャラ言わせながら馬に乗っていたということになりますね?

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  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1689/4748)
回答No.3

江戸時代は、伝馬(てんま)制が整えられました 街道上に設置した宿場に一日あたり一定数の人馬を提供する義務を課すというものでした 宿場をリレー形式で継ぎ立て、旅行者やモノを目的地まで運びました 文面(写真)は「この朱印がない場合は、伝馬を出してはならない」との内容で、東海道桑名宿に宛てたもの 伝馬とは、宿場が用意する輸送用の無料の馬のことです 公用旅行者は同じ印を押した伝馬手形を持参し、伝馬の提供を受けました 本資料は慶長6年(1601)に東海道の諸宿設定時に出されたもので、徳川家康が用いた駒曳朱印(駒の朱印とも)といわれる印面の下半分に馬とその手綱を曳く馬士が描かれた朱印が押されています 故に、この伝馬朱印状があれば、その都度で料金を払っていたわけではないことが分かります

tahhzan
質問者

お礼

何と、無料ですか。いやはや、想定外ですね。それにしても、次の宿場まで無料の馬で行った場合、その馬はどうやって元の宿場に返却したんでしょうね? おそらく、馬子が乗って返却し、馬子は歩いて自分の宿場に帰ったんですかね…江戸時代の交通手段は、非常に興味深い分野だと思いました。ありがとうございました。

tahhzan
質問者

補足

忘れましたが、朱印状の写真ありがとうございましたm(_ _)m 大変、参考になりました。

その他の回答 (3)

回答No.4

早馬は乗り換えなかったようです http://www.edojidai.info/unnchiku/hayakago-hayauma.html そもそもそれだけの距離の道を間違いなく馬に乗って走るのは困難では?道標も揺れる馬の上で見るのも大変です、仮に正確な地図があったとしても(無いと思いますが)方位磁石は無い(仮にあっても桶に水を張り浮かべてです) また馬は車でないので、簡単に言うことを聞く動物でもありません、特に早馬のように無理をさせようとしてもだめでしょう。 だから日頃世話をしてる愛馬で走るから早馬何だと思います。 一方飛脚は同じ区間を行き来するものですから、道に離れています。

tahhzan
質問者

お礼

興味深い記事ですね。なるほど。確かに、そう言われればそうでしょうね。それにしても、飛脚の江戸〜大坂間が二日というのには、ビックリですね。ウルトラマラソンも流石にこれには敵わないでしょうね(笑)ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

 あの時は早駕籠、だったので、力縄(ちからづな)と言う、籠の屋根の内側に結んだ縄にしがみつき、揺れに酔って吐くのを止める手拭いを口に咥えての三日三晩です。  始終駆け足の籠舁き(かごかき)前後二人は、お次の籠次かごつぎ(東海道だけで五十三箇所)までですが、その人たちに払う路銀(ろぎん)は安く手元に数両あれば足り、準備したと思います。

tahhzan
質問者

お礼

早籠ですか。それにしても、東海道だけで53次もあれば、53回支払ったんでしょうかね…そのあたり、まだ、謎ですね…ありがとうございました。

  • hahaha8635
  • ベストアンサー率22% (800/3610)
回答No.1

1両が13万円で 大工の年収が343万円ですから  3両 小判3枚持っていけば ウハウハでしょう https://manabow.com/zatsugaku/column15/2.html

tahhzan
質問者

お礼

そうなんですか。なるほど。ありがとうございました。

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