バベルの塔の崩壊は、別にいけない事ではありません。
バベルの塔は元々、天にまで達する塔を完成させる事で名を上げて、それにより人々団結を強め、世界中に散り散りになる事を防ぐ様にするために建設されたものです。
しかし、人間の力で造ったものを主の領域である天に届かせるという事は、主の領域を侵し、人間を主と同じ高みに上げる行為でもあります。
又、主は人間を含めた地上の生き物(キリスト教における生き物とは人間と動物の事で、植物は生き物とは見做されない)に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われておられるのですが、世界中に散り散りになる事を防ごうとする事は、「地に満ちよ」という主の御意志に逆らう行いです。
つまり、バベルの塔を建設する事がいけない事であって、塔の崩壊自体は主の御心に沿った正義なのです。
それから、旧約聖書にはバベルの塔が崩壊したという記述は無く、単に言語を乱されて意志の疎通が出来なくなった人々には、塔の建設を継続する事が出来なかったため、塔は建設途中で放棄されただけです。
それに、言語を乱された事は困る事かも知れませんが、バベルの塔が崩壊したとしても人間が分不相応な名声を得られなくなるだけですから、塔の崩壊自体は大して困る事ではないと思います。
パンドラとその箱は、神々の許しも無く、太陽の馬車から火を盗んだプロメテウス兄弟と、その火を使っている人間に対して罰を与えるために、災厄をもたらす罠として用意されたものですから、本来、箱は開けられる事が前提の存在だったのです。(箱が開けられる事を確実にするために、パンドラには、わざわざ好奇心が与えられています)
ですから、パンドラに対して神々は口でこそ「開けてはいけない」などと言っておりますが、むしろ神々にしてみれば箱が開けられないままでいる事の方が困る事だった訳です。
従って、パンドラの箱が開けられた事は、いけない事ではありません。
又、箱が開けられた事は、人間にとっては困る事ですが、神々にとっては望ましい事だった訳ですから、後述の禁断の実を食べた事と比べれば、一番困る事とは言えないと思います。
上記の2点に対して、禁断の実を食べる事は、主の御心に反する行いですし、禁断の実を食べた結果も人間にとって好ましくない事態を招いただけです。
アダムとイブが禁断の実を食べた事は、主の信頼を裏切った初めての行為ですから、言うなれば、人間を前科者にした行為だったとも言えると思います。
その結果、人間は主とのそれまでの親しい関係を失い、エデンという楽園から追い出され、命の木の実を食べて永遠に生きる事も出来なくなりました。
又、主の呪いで様々な苦痛が与えられる様にもなりました。
人間は罪を犯してしまう傾向がありますが、キリスト教では、その様な傾向がある原因は、人間は生まれながらにして原罪という罪を背負っている存在であるためだとしており、人間に原罪があるのは、アダムとイブが主に背いて禁断の実を食べたためであるとしています。
従って、人間がバベルの塔を建設する等という罪深い行いを始めたのも、アダムとイブが禁断の実を食べた事に端を発していると言えます。
確かにパンドラの箱が開けられた事は、災厄の原因という点では禁断の実を食べた事と同等かも知れません。
しかし、パンドラの箱が開けられる事が神々の意志に沿っていたのに対して、禁断の実をアダムとイブが食べる事は主の御心に反していた上に、主と人間の双方にとって、望ましい事ではありません。
それに、ギリシャ神話における神々と人間の関係は、エデンの園における主と人間の関係程、親しくも無ければ、信頼で結ばれていた訳でもありませんから、パンドラの箱が開けられた時と、禁断の実を食べた時を比べれば、禁断の実を食べた時の方が失ったものが多いと言えると思います。
従って、アダムとイブが禁断の実を食べた事が1番いけない・困った事だと思います。
お礼
バベルの塔に関しては、建設が高慢や欲の象徴だったのですね。。。(高慢さ・貪欲さによって神が崩壊させた塔が罰を受けた象徴かと思っていました;) パンドラの箱は、あらゆる悪・不幸の根源ですが、この世にそれらが存在しないと、幸福・安定・楽しさなどを本当の意味で感じることができなくなりそうです; 神話に書かれたのは、物事の両面・表裏・多面性について考える重要性なども含まれているかも知れませんね。 バベルとアダム・イブは、聖書に記され、人のあるべき姿・生きる意味・罪や許しなど基本となる部分が人の精神や行動の多岐にわたっていて、多くの意味を含んでいるのだと思いました。 罪の原型と言われているアダムとイブがした行為は、確かに多くの不の面・人の罪を作り出す元となっているのでしょうね。。。色々と考えさせられます。 ありがとうございました。