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日本の死刑文化は江戸時代が元にあるのですか?
殺されたら殺し返す、という日本の死刑文化は、江戸時代が元にあるのでしょうか?
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>日本の死刑文化は、江戸時代が元にあるのでしょうか? 残っている記録では、平安時代からですね。 中世で有名なのは、秀吉時代の「石川五右衛門」の釜茹で刑。 江戸時代になってから、「私刑」が廃止され「公的な処刑」となりました。 質問者さまが言う「死刑制度」と考えれば、江戸時代からですかね。 刑は、道徳的な観点から始まっています。 借りた物は、返す。 壊した物は、治す。 盗んだ者は、返す。 ただ、殺した者は生き返らす事は出来ません。 結局、死刑となります。 余談ですが・・・。 江戸時代には、処刑には6種類が存在しました。 「下手人」首を刎ねて+遺体は関係者に渡す。 「死罪」首を刎ねて+遺体は関係者に渡さないで様(ためし)斬り。 「獄門」首を刎ねて+刑場の獄門台で首を晒す。 「磔」十字の柱に縛り付けられて30回程度槍で突き刺される。その後、3日間遺体を縛ったまま晒される。 「鋸引き」生きたまま首まで埋められて、通行人に鋸で首を挽かせる。 「火罪」俗にいう火あぶり。 不気味ですねぇ。 現在でも、全国各地の処刑場跡は「公園など公有地」になったままです。
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- g27anato
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我が身の命を脅やかす相手は、 報復や繰り返しの危険から逃れる為にも、 その命を断っておかなければならない。 その思いは太古の昔から人々の心の奥底に潜んでいます。 …それは江戸時代に始まった事ではありません。
お礼
ありがとうございます。人間の本質ですかね。
- eroero4649
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E7%BD%AA 死刑(死罪)という処罰は、日本史においては最古の法律である大宝律令から存在しています。701年成立ですね。 「殺されたら、殺し返す」というのは仇討ちのことでしょうか。仇討ちなら制度としては江戸時代初期からあります。 「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士による仇討ち(討ち入り)は、元禄15(1703)年に行われました。江戸初期の出来事です。 ちなみに仇討ちは藩主(主君)に願い出て許可をもらう必要がありますが、許可をもらったらそれはそれで責任は重いです。仇討ちが成功するまで帰ってくることはできないからです。「探したのですが、やっぱ見つかりませんでした」というのは通らないのです。見つかるまでやらないといけない。場合によってはその仇討ちの相手が死んじゃっていた、ということもありますが、これも「失敗」にカウントされるので帰郷できません。「相手が生きてるうちにやれなかったお前が悪い」となるのです。ついでに、仇討ちで返り討ちをされてもそれで終わりです。「返り討ちされるやつが悪い」です。 「鍵屋の辻の決闘」で知られる伊賀越えの仇討ちでは、剣の名手である荒木又右衛門が助太刀したことで知られています。しかし助太刀の又右衛門が相手をしたのは、「相手の助太刀」です。仇討ちの相手は、仇持ちがやらないといけないのです。このときは仇持ちの渡辺数馬も仇である河合又五郎も剣術に慣れていなかったので真剣勝負となるとお互いにビビってしまって5時間も睨み合ったまま動けなかったといいます。その間又右衛門先生はずーっと見守るしかありませんでした。そこに介入するのはNGなのです。
お礼
興味深いです。ありがとうございます。
- fujic-1990
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「殺されたら殺し返す」なんて考え方は江戸時代にはありませんでした。 善し悪しは別にして、「10両盗めばクビが飛ぶ」という考え方、制度はありました。 「間男は二つ切りしてもいい(但し、妻も一緒に)」、という考え方が、武士の間にはあったようです。 「仇討ち」は、ごくごく特殊な場合、厳格な方式で許され、実際には「やってはいけないこと」とされていました。それにも関わらず、赤穂浪士はやってのけたので、喝采をうけました。実際に推奨されていて、多くの人がやっているなら注目されなかったでしょう。 殺されなくても殺して良い「無礼打ち」・「斬捨御免」というのもあったようですが、めったに正当化されなかった(違法で、やった武士も罰せられた)ようです。 つまり、(くどいですが善悪は別にしますが)「殺されたら殺し返す」という発想とは全然違いますね。
お礼
ありがとうございます。江戸でなければと調べて見たら、王政復古で八虐の罪とかあり、幕末・維新の動乱の中で生まれたものなのでしょうか。
お礼
ありがとうございます。想像以上でした。