>信長の時代以前、寺院以外で瓦葺き屋根の建物はなかったのですか。
伊勢神宮に奉仕した斎宮の忌み言葉に瓦葺(=寺院)と言うのが有った位なので、瓦葺き屋根の建物は基本的には寺院だけだと思います。
(建築史学者の太田静六は、「一般貴族の邸宅までが瓦葺であったという実例は未だ一例も確認されていない」と言っています。)
寺院が瓦葺だったのは、大仏や貴重な舶来の経典等を未来永劫守れる頑強な建物でなくては成らないと考えていたからだと思います。
(あと、中国文化への憧れ…。)
神社は、伊勢神宮の式年遷宮の様に、建物は定期的に建て直す物だと認識しており、瓦の頑強さは必要としておりません。京都の内裏も平安時代の極端な例だと100年間に14回も火災等で損失・再建をやっていますし…。
ちなみに、今残っている京都御所は江戸時代に主要建物だけ平安時代風の復古様式で再建されたのを踏襲しているからです。
(主要なもの以外は、財政難から江戸時代の都合の良い建築方式なので瓦葺…。)
平安以降、室町の後半まで瓦葺が一般的にならなかったのは、以下の理由が考えられます。
1.日本の環境上の問題
(湿気が多いため通気性の良い他の葺屋根の方が適していた。)
2.平安以降に瓦の需要が低下した事で日本における瓦技術の低下
(瓦一枚当たりの重量や強度および色が不揃いになる等)
3.大重量となる瓦葺の屋根を支えらる建物の建築の困難さ…。
(大重量を支える柱や梁に必要となる巨木の確保が既に困難と成りつつあった。)
4.檜皮葺は、当時の建築方法で優美な曲線と重厚感を出すことが可能。(下級貴族の館には使用禁止とされた程)
5.瓦は、重量がある上、破損しやすい為、作り置きして必要時に運搬するというのが難しい。
(平安時代以降の山岳寺院は、上記理由により瓦葺を採用しなかった。)
なお、信長の時代になぜ可能となったかと言うと
1.瓦製造技術の向上の為、安土城建城の際わざわざ明から一観(いっかん)という人物を呼び寄せ、現在の燻し瓦(焼き上がりが黒一色の美麗な瓦になる)に相当する瓦の製造を行わせている。
2.室町時代中期以降の建築技術の飛躍的向上。
角材の生産が可能となる、木材を縦に切断可能な大鋸や鉋などの工具が使用可能となる。
建物を建築する方式が、建物の大重量を支えられない上に柱の寿命を短くする竪穴式建築法から礎石建築法へ転換していった。
素材や技術の発展で檜皮葺でなくとも優美な曲線や重厚感を持った屋根が製造可能となる。
3.権力の集権化が進み建材の入手の困難さが多少緩和された。
なお瓦はその後も発展(現代でも最も使用され、軽量で施工も容易な桟瓦(さんがわら)の発明等)していくのですが、江戸時代でも奈良の大仏殿修復は、多大な労苦(修復断念案が出るほどで、結局明治・昭和の修復で何とか保っている)を味わいますので瓦葺の建物の建築は容易ではありません。
(奈良の大仏殿は、よく完成したものだと感心します。→ちなみに今有る物より創建当時は大きかったとか…。)
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 びっくりしました。 こんなに高い山の上に瓦葺きの建物があったとは! さらに大規模な石垣にも驚きました。 重たい石や瓦を全て人力で持ち運んだわけですから。 そして、九州の人民を奈良から指図して動員できる天智天皇の権力の凄さにも。 よほど白村江の戦いでの大敗が身に染みて恐ろしかったのでしょう。 同時期、他にも古代山城が築かれていますから、探せばも少しありそうです。 調べてみます。