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田安徳川家と一橋徳川家が創設されたのは同じ時か?

御三卿の田安徳川家と一橋徳川家が創設されたのは同時だったのでしょうか? 御三卿の田安徳川家と一橋徳川家が創設されたのは同じ時だったのでしょうか? 御三卿の田安徳川家と一橋徳川家が創設されたのは同時だったのかどうかを教えてください。

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  • ithi
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回答No.1

cfgbhjnさん、こんばんは。 田安家が創設されたのが享保14(1729)年。一橋家が創設されたのが元文2(1737)年です。ですから8年の差があると申しておきましょう。詳細は下記のURLを参照ください。 田安家 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6 一橋家 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6

noname#240543
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 <田安徳川家> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6 享保14年(1729年)、宗武は元服して右衛門督と称し、御守(家老)両名を付けられて蔵米で賄料3万俵を与えられた。翌15年(1730年)には田安門内に邸地を与えられ、翌16年(1731年)に屋形へ移った。延享3年(1746年)には蔵米支給が領地に切り替えられ、賄料領知10万石を武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨の6か国に与えられた。 <一橋徳川家> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6 宗尹は、元文2年(1737年)に賄料を現米2万俵に改められ、同5年(1740年)に一橋門内に宅地および賄料1万俵を加増され、一橋家を興した。延享3年(1746年)、新規に賄料領知10万石を武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中7か国のうちに与えられ、高10万石となる。ただし、領分は時期によって異動があり、幕末期には、武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中の8か国22郡に散在していた。 <徳川宗武> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%AD%A6 享保14年(1729年)9月27日、元服。宗武と名乗り、従三位左近衛権中将兼右衛門督に叙任。徳川の苗字を称する。 享保16年(1731年)1月27日、江戸城田安門内に屋敷および賄料3万俵を賜り、田安徳川家を創設する。これが、後の御三卿の始めである。 延享2年(1745年)11月2日、参議に補任。 延享3年(1746年)9月15日、賄料10万石を与えられる。 <徳川宗尹> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%B9 1735年(享保20年)9月23日 - 元服して宗尹と名乗り、徳川姓を称する。従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任。3万俵を賜る。 1737年(元文2年)10月18日 - 2万俵の加増。 1740年(元文5年)11月18日 - 江戸城一橋門内に邸を賜り、1万俵加増。 1741年(寛保元年)11月25日 - 一橋邸を定住とする。 1745年(延享2年)11月2日 - 参議に補任。 1746年(延享3年)9月15日 - 10万石を賜る。 創設された時期は違いますが、参議に補任された時期と、10万石を賜った時期は同時ですね。 ありがとうございました。

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