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無念無想、無為自然
仏教用語での無念無想と老荘思想の無為自然って共通のような気がします。 同じところ。 違うところ。 類似のこと。 など教えてください。
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違うところが多いのですが、類似の所をいえば、自然に身を任せる生き方をする無為自然が、大宇宙や大自然そのものを受け入れる心を持っていることが、無念無想の心につながるものになると思います。 基本的に無念無想の状態は365日続けることは不可能です。人間は腹が減ったとか、眠いとか、肩がこったとか、トイレに行こうとか、いろいろなことを考えて生活しています。無念無想というのは、そういった考え事や雑事を一切捨てて、無の境地になることなのです。 無為自然であれば、自然のままに生きることですので、この状態を365日継続することが可能かもしれません。無為自然の心の状態では、自分の置かれた状況をありのままに受け入れ事前に行動するわけなのです。そして、これを突き詰めていくと無念無想の境地に至ることができるかもしれません。しかし無為自然は、そのような状態を無理に維持し続けることではありませんので、すぐに様々な思いがわき、それに従って自然に行動するのです。 無念無想は宇宙の法則にのっとって生きるわけではありませんので、無為自然とは違います。無念無想は無念無想になるという状態を作るべく、自分の心をコントロールしています。つまりこれは、無為自然から離れて、すべてのものをありのままに受け入れ、無我の境地に至るものですので、無為自然の人から見れば、無我の境地の人はかなり不自然なことをしているように見えるはずです。 無為自然の代表的なものに赤ちゃんがいます。赤ちゃんは、お腹がすいたとか、オムツが気持ち悪いと、すぐに感情をあらわにします。眠くなれば寝ます。まさに無為自然に行動しています。無為自然は「動」の中にあらわれると言えるかもしれません。 無念無想の代表的なものと言ったら、座禅を組んでいる修行僧とか、剣術の達人が瞑想しているようなところでしょうか?その景色は「静」としてあらわれていると思います。 つまり、無念無想と無為自然は、静と動の違いがあり、その内なる心において、あるがままのものを受け入れる心と、あるがままのものを受け入れ行動するところにおいて、受け入れる部分は、一部共通していると言えると思います。
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- stss08n
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●違うでしょう、無念無想:一途に祈る、無為自然:多少は、ナチュラルに。
お礼
ありがとうございます。 そうも言えますよね。
お礼
該博なご見識でのお教えに感謝申し上げます。
補足
ありがとうございます。 たいへん勉強になりました。