>天皇、北朝側天皇、南朝側天皇についた公家や武士のことを廷臣と呼ぶ
正しい様で、実は正しくありませんね。
「天皇、北朝側天皇、南朝側天皇についた」ではなく「天皇、北朝側天皇、南朝側天皇に直接仕えた」が正解です。
色んな見方がありますが、楠正成も廷臣ではありません。
>いつごろから、公家と呼ぶようになったのでしょうか?
公家は武家の対比語です。
武家が勢力を持った頃から、書類上に公家記載が現れます。
1156年の保元の乱では、既に公家が現れていますね。
>因みに、江戸時代の廷臣には武士はいなかったと聞きました
江戸時代には、既に天皇家・朝廷の命令で動く直属の武士は存在していません。
※幕末でも、天皇の命令で出動したのは京都所司代(会津藩)・幕府軍でした。
まぁ、たった3万石では自前の軍隊を持つ事は出来ません。
※幕末には、10万石にUPしています。
余談ですが・・・。
孝明天皇の勅命で「三条実朝ら都落ちした7卿・長州藩に対しては、国賊として追討令」が出ています。
三条実朝や長州藩が偽物の勅書を乱発した事に、孝明天皇ら朝廷側は激怒したのです。
この偽物の勅書を信じて、奈良では天誅組の乱が勃発。
天誅組参加者には、代官所を襲撃した翌日に「国賊として追討令」が孝明天皇から出ます。
追い込まれた三条実朝派公家や長州藩は、孝明天皇・祐宮(後の明治天皇)を暗殺。
伊藤博文が隊長となっていた長州・相撲隊から偽物の明治天皇を即位させて名誉回復を行った!?との逸話が残っています。
※祐宮は、虚弱体質で右利き。明治天皇は大男で左利き。
これも、直属の軍隊を持たなかったからですね。^^;
※上記は、もちろん諸説御座います。