• 締切済み

鎌倉と室町の守護

「戦国時代」のことに興味を持ち始めたのですが、基礎知識がないので、「守護」だとか「守護代」だとか、「地頭」だとか出てきて、「土地」や「政治体制」とかに関係しているような気もするのですが、さっぱりわからず迷路に迷い込んでいます。 それで「守護」について下記の3点について教えていただきたいと思い質問させていただきました。 (1) 鎌倉時代と室町時代の「守護」とでは、両者に異なる点があるとすれば、どのように異なるのでしょうか??? (2) そのことが戦国時代の到来と関係しているでしょうか??? (3) 関係しているとすれば、「守護」の姿の変化というのが、どうして戦国時代を招いたのか???

みんなの回答

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.5

>守護と地頭との間には上下関係があったのでしょうか??? えーと鎌倉時代成立初期の建前としてはNOです。 地頭は鎌倉幕府にその土地の支配権を補償してもらう変わりに、幕府の動員に従う義務があります、俗に言うご恩と奉公の奉公です。 この奉公の一環で鎌倉幕府に任じられた守護の指揮権に従うわけです。守護はあくまで現地指揮官であり従ってる相手は鎌倉幕府です。 ですが現実問題としては、地頭の守護に対する被官化(家臣化)と呼ばれ、上下関係が発生しています。 (2)これはもう半済で調べなおすなり質問建て直すべきかと思います。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%B8%88 以下抜粋 きっかけ >現存する最初の半済令は、1352年(観応3年/正平7年)7月に室町幕府から発布された。当時、全国的な争乱(観応の擾乱)が続いており、軍費・兵糧調達のため、激戦地であった近江国(守護:六角直綱)・美濃国(守護:土岐頼康)・尾張国(守護:土岐頼康)の本所領(荘園)を対象として、その年の収穫に限り、守護に年貢半分の徴発を認めた。 拡大 >なお、15世紀後期の応仁の乱および近江出兵の伴う幕府の軍事作戦に伴って幕府が半済令を復活させた事が確認できる[1]。 この「背景」こそが、次の時代の到来を予見させる「もやもや」だったのではないか???という気がしているのですが。 まあ結局背景は応仁の乱に行き着くわけですが、半済こそが複雑な土地支配構造の解体の引き金を引いたので、次の時代の到来を招いたという解釈は十分可能かと思います。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 これはもう半済で調べなおすなり質問建て直すべきかと思います。……確かに。1つの知りたいことを調べているうちに、さらに大きな「わからない」ことが沢山出てきて、迷路に迷い込んでしまうというか、途中で何が知りたかったのかさえ分からなくなってしまいます。(*^_^*) ええぇ~~い、面倒くさいと。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

(1)鎌倉時代の守護→国内(現在で言うと県くらい)の軍事指揮官。国内の小領主である地頭を率いて戦争や犯罪者の追跡を指揮する。 室町時代の守護→前半は鎌倉時代と概ね一緒。領内の所領争いについての裁判権も追加。 14世紀後半になると、半済の権・半済令を獲得、領内の田畑の収穫の半分を徴収する権利を得る。 (2)上記の裁判権と半済の権を獲得することにより、守護が領内を実質的に支配する力を持ち、守護大名が領内の支配者となり戦国大名へと強大化していきます。 これはいくつかの戦国大名成立の大きな流れとなっています。 (3)これは難しいですねえ。いくつかの戦国大名の成立にはこの守護の強大化の流れがありますが、この流れに依らない戦国大名も少なくありません。戦国時代の到来は基本的には応仁の乱による幕府権威の失墜、それによる地方の無法地帯化が招いています。各地方で中央集権化が発生したことが戦国時代を起こしたと言えなくもないですが、私はあまり無理に関連付ける必要は感じません。守護(大名)も戦国時代の背景の一つ程度に考えたほうが良いのではないでしょうか?

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 ご回答の内容について、さらに教えていただきたいことがあります。 「気が向いたら」で結構ですが、教えていただければ幸いです。 (1)国内の小領主である地頭を率いて戦争や犯罪者の追跡を指揮する。……守護と地頭との間には上下関係があったのでしょうか??? (2)半済の権・半済令を獲得、領内の田畑の収穫の半分を徴収する権利を得る。……この「権利」を得た背景は何でしょうか???この「背景」こそが、次の時代の到来を予見させる「もやもや」だったのではないか???という気がしているのですが。

  • fujic-1990
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回答No.3

 1番回答者です。補足質問を拝見しました。 1、について  足利政府が成立するまえに地位を確立していた「守護」というのは、鎌倉幕府が「義経捜索、追討」などを名目に任命した守護のことです。 > 鎌倉幕府を裏切って、「室町幕府を成立させた」ということでしょうか?  いえ、守護たちの感覚で言えば、「逆」だろうと思います。  鎌倉幕府の命令に従って、二度にわたって多大な犠牲を出しながら、元と朝鮮の連合軍(元寇)を撃退したのに、犠牲に見合うだけの報償をくれなかったのだから、「裏切ったのは鎌倉幕府が先」「我々はダマされた犠牲者だ」と思っただろう、と私は思います。  元寇から日本を防衛しても、撃退しただけで、新規に領土を獲得したわけではないので、分配しようにも分配できなかったのですが、そんな正論は、犠牲者には通りません。沖縄の皆さんに、「日本防衛のための犠牲」とか言っても許してもらえないのと一緒でしょう。  沖縄の皆さんが反自民、安倍内閣打倒を主張してデモったように、鎌倉幕府打倒を目指して、守護・地頭を初めとする武士たちは、武力をもって立ち上がったのでした。  さらに犠牲を払って後醍醐帝・新田義貞(反幕府)側に味方して、鎌倉幕府を潰し新たな領土を獲得したはずだったのに、後醍醐帝は、武士を排除して「貴族の世」に戻したいと考えたのです。新田義貞はそれに従いました。  実際に命をかけて働いた武士には報いようとせず、見ているだけだった貴族たちダケで幕府派の領土を山分けしようとした(建武の新政:中興)ので、守護を筆頭にした武士たちは怒りました。「聞いてないよ~」  彼らは新田義貞の本家筋の足利尊氏をせっついて、再び「武士の世」を作ってもらおうとしたのです。  尊氏は武士たちの願いを入れて反後醍醐の戦いを始めました。が、当初は連戦連敗。記憶によりますと九州まで逃げて、中国・九州の守護たちの助力を得て反撃に移り、やがて足利幕府を作ることができました(南北朝時代)。  つまり、尊氏は御神輿で、実際の足利幕府(後の室町幕府)は、中国・九州地方の守護たちが中心になって作り出したものだったのです。  それで、守護や地頭が足利幕府の要職(3管領、4職)を占めて、領土も分配し、大いに満足したのでした。  ところがそこへ、将軍職(細かく言うと管領職も)を巡って争いが始まって云々、というのは前回書いた通りです。 > 2 「京都に出て争い、地元を留守にしたのです」  守護は、義経捜索・義経勢追討名目で各地に派遣されたので、派遣先に住みました。京都にいては、捜索も追討もできません。派遣先に土着して、本来は権限外だったはずの荘園も侵食し、力を得ていきました。  細川、斯波、畠山、山名、京極、一色、赤松などが1国から数カ国を領有するようになり、再三書いている「三管領」や「四職」を務めました。  ちなみに、織田信長の織田家は、斯波氏の家老の織田家の、そのまた家臣です。福井県だったと思いますが「剱神社」というのがあって、そこが織田家の発祥地で、織田家はそこの神職だったようです(織田家発祥地の看板が立っています)。  土着という点で、貴族の「国司」とは違いましたね。国司には、現地にいかず、年貢だけ取り立てていた者(実際に現地で徴税して京都へ運んでいたのは武士)も多かったようですが。  因みに「応仁の乱」で、西軍がいた場所あたりで始まった織物が「西陣織」です。

noname#238475
質問者

お礼

再度、ありがとうございました。 「元寇」は鎌倉幕府にとっては大きな打撃だったようですね。現代も変わらないと思いますが、「土地」の持つ意義というのを考えさせられます。鎌倉時代にも関心を持ちかけた時期はあったのですが、途中で頓挫してしまいました。(*^_^*) 後醍醐天皇の「建武の新政」が始まった経緯には、勉強不足ですが、「何故、いまさら」」という不思議なものを感じます。   因みに「応仁の乱」で、西軍がいた場所あたりで始まった織物が「西陣織」です。……私の読んでいる参考書にもそんなことが記述してありました。「地名」ひとつにしても、京都の歴史の重みというものを感じますね。もう叶わないと思いますが、京都をゆっくりと歩いてみたいという夢だけは持っています。「京都人のプライド???」というのには、まったくなじめませんが。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.2

https://bushoojapan.com/tomorrow/2018/03/03/110707 このへんあたりが分かりやすいと思います。一般レベルなら、このくらい理解していれば読み物を読んだときにだいたい分かるのではないかなと思います。 鎌倉時代(北条政権時代)と室町時代(足利政権時代)との違いは自民党政権か民主党政権かみたいな違いだと思えば理解しやすいかなと思います。実際はかなり違いますが、現代人に理解しやすいように比喩しているのだとご理解ください。 鎌倉時代の守護が自民党政権が出した大臣だとしたら、室町時代の守護は民主党政権が出した大臣みたいなものです。場所によっては自民党時代の大臣(守護)がブイブイいわしていて民主党の大臣(守護)は何も手を出せず単なる肩書にしか過ぎなかったということもありました。 それもこれも、室町幕府というのが中央集権としては権力が弱かったということにあります。特に関東地方は実質的に室町幕府の権威が及んでいなくて、関東管領に鎌倉公方、古河公方なんかが入り乱れていて誰が関東の権威なのか分からない状態になっていました。それらの「幕府系権威」に加えて、関東地方で独自に勢力を伸ばしてきた小田原北条家という存在もありまして、そのうえ関東管領上杉家も山内上杉家と扇谷上杉家の内紛などもありまして、戦国初期の関東地方は非常にややこしい・笑。 関東の争乱のように、中央(京都)でも応仁の乱があってこれがダラダラとした内戦になります。これが対立・相関関係が入り組んでいて訳が分からない。今の野党のどことどこが協力関係で対立関係なのかよく分からないような感じで入り乱れていたので、だから野党の支持が集まらなくてグダグダになるのと同じで、室町幕府の権威はどんどん落ちて、時代は中央集権から地方分権の時代へとなっていくのです。 近年の研究では、戦国時代というのは戦乱の時代というよりも、高度経済成長期ともいうべき時代であるという言い方をする人が増えてきましたね。テレビによく出てくる磯田道史先生は「戦国時代は高度経済成長時代だ」といっています。 実際に戦国時代に人口は増加し、GDPも増加。何より戦費の決済のために貨幣が全国に普及するようになり、軍隊が頻繁に通るようになるので街道も整備されます。ただ貨幣経済が全国に普及し街道の整備が全国に整うのは、江戸時代に参勤交代するようになり、徳川家光が日光にやたらと行くようになってからなんですけどね。 国家の歴史というのは世界中どこの国や地域でも、中央集権と地方分権を行ったり来たりするものです。どちらの制度も一長一短があって、その時代時代によってニーズが変わりますからね。現代日本も、今の中央集権体制は戦争で荒廃した国土を復興して全国を等しく豊かにするという点ではすごく上手くいきましたが、こういう時代になると中央集権の東京中心主義というのが地方を疲弊させてしまっているという側面も出てきています。地方が経済的に復活するには、優秀な人材が地方にやってくる「戦国時代」が必要ですが、そのためには中央の権力が弱くなる必要がありますね。

noname#238475
質問者

お礼

 ありがとうございました。  このへんあたりが分かりやすいと思います。……ネット時代ですから、自分で調べれば分かりそうなものだけど、ついつい安直な方法を頼ってしまいます。的確な資料を紹介していただきありがとうございました。輪郭が少しつかめてきたのですが、なにぶんにも脳が軟化しているせいか???理解が難しくなりました。高校生の頃は徹夜で何とかなったのですが。(*^_^*)  ご紹介いただいた資料については、幾つか興味深いことがありますが、「荘園」と「荘園を取り巻く環境の変化」というものを理解しないと???と……新たな課題が見つかりました。とりあえず自分で調べてみます。  鎌倉時代(北条政権時代)と室町時代(足利政権時代)との違いは自民党政権か民主党政権かみたいな違いだと思えば理解しやすいかなと思います。……最近、「歴史が分かると現代が見える。」、「歴史が分かると人間に親しみが湧いてくる。」という気がしてきています。高校時代の「日本史」はなじめなかったのですが。(*^_^*)  戦国初期の関東地方は非常にややこしい・笑。……そうですね。(*^_^*)司馬遼太郎の「箱根の坂」は、昔、読んだのですが、さっぱり分からないままに終わってしまいました。今、まだ手元に残しているので、「生きているうちに読み返してみようかな???」とか……。  今の野党のどことどこが協力関係で対立関係なのかよく分からないような感じで入り乱れていたので、だから野党の支持が集まらなくてグダグダになるのと同じで、……北海道知事選の結果にも現れました。もう少し頑張ると思ったのですが、時代の変化を感じるような意外な「大差」でした。「中央の力と影」を感じる顛末でもあったように感じています。  戦国時代というのは戦乱の時代というよりも、高度経済成長期ともいうべき時代であるという言い方をする人が増えてきましたね。……単に「戦の時代」と捉えるよりは、「変化の到来、頑張れば報われる時代」という視点でしょうか???……私の生きてきた時代を振り返っても分かるような気もしますが、「時代」とか「世相」というものをもっともっと深く掘り下げないと到達し得ない見解のようにも感じます。  こういう時代になると中央集権の東京中心主義というのが地方を疲弊させてしまっているという側面も出てきています。~~~そのためには中央の権力が弱くなる必要がありますね。……一時期、「地方の時代」ということが一世を風靡した感があったのですが、春を待たないうちに、遠ざかってしまったというか、今、「中央集権」が横行しているというか、「乱暴」がひどすぎるように感じています。  いつもありがとうございます。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 歴史解釈はいろいろあろうかと思いますが、 > (1)鎌倉時代と室町時代の「守護」とでは、どのように異なるの  鎌倉時代の守護は、すべて鎌倉幕府が選任して、守護の地位に着いたので、まだ力は弱く、且つ、「いざ鎌倉」という慣用句が今に残るほど直接鎌倉幕府に恩を感じていたでしょうが、室町幕府における守護は逆です。  室町幕府(足利政府)が成立する前に、守護の地位・力が確立していたのです。  足利幕府が守護たちの連合力によって成立したほどですので、守護は足利幕府には恩義は無かったでしょう。市議や県議が「アイツを代議士にしてやったのは俺だ」感覚だろうと思います。 > (2)そのことが戦国時代の到来と関係しているでしょうか???  おおいに関係していると思います。 > 「守護」の姿の変化というのが、どうして戦国時代を招いたのか???  有力守護大名は、三管領、四職とよばれるような重職に就いて幕府を牛耳っていました。  ところが将軍の後継者を巡って争いが生じたのです。京都で。  当然、勝った方の将軍は味方した大名を尊重して自分は無視されるだろう・・・ と予想され、各地の守護大名が自分の思惑でその後継者争いに介入しました(応仁の乱)。  京都に出て争い、地元を留守にしたのです、「有能」な家臣に地元の後援会の運営をすべて任せて。  すべての実権を握った、有能な地元後援会長はやがて、東京ばかり見て地元の役にたたない代議士を見限って、自ら代議士に立候補したのです。  地元民は、その有能な後援会長を支持しました。話が現代版下克上とごっちゃになってしまいましたが、戦国時代の後援会長が戦国大名です。  戦国大名は当初、守護大名ほど中央の政界に関心をもたず、地元に利益をもたらすことを優先しました。なので、戦国大名は乱立したのです。  が、地の利、人の利などにより、その戦国大名たちの間にも強弱が出始め、京都に近い所で商いの利を利用できた天才織田信長が出現するに及んで、戦国時代は収束へと向かい始めるのでした。

noname#238475
質問者

お礼

 ありがとうございました。折角ご回答いただいたのに、私には、ご回答を理解できる知識と能力がありません。<(_ _)><(_ _)><(_ _)>(T_T)(T_T)(T_T) それでも、「ご回答の内容」について、恥のかきついでに、教えてもらいたいことがあります。気が向いたらお考えをご披露いただけると有り難いです。 1 「室町幕府(足利政府)が成立する前に、守護の地位・力が確立していたのです。」ということですが、この「守護」というのは鎌倉幕府から任命された守護ですよね。鎌倉幕府を裏切って、「室町幕府を成立させた」ということでしょうか???これは「源」から「北条」に移ったことに関係しているのでしょうか??? 2 「京都に出て争い、地元を留守にしたのです」……この辺のことが良く分かりません。守護は、そもそも鎌倉や京都在住ではなかったのですか??? (感想) すべての実権を握った、有能な地元後援会長はやがて、東京ばかり見て地元の役にたたない代議士を見限って、自ら代議士に立候補したのです。……(*^_^*)(*^_^*)しがない「一般庶民」ですが、偉い人の苦労が分かるような気がします。

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