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江戸時代の北海道開墾
伊能忠敬の番組を見ていてふと疑問に思いました。 当時の技術では不可能かとは思いますが、江戸幕府は釧路湿原に農民を送り込み開墾する発想はなかったのでしょうか? 越後に匹敵する大湿原となれば、成功すれば結構な石高になるはずです。
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- oska2
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>江戸幕府は釧路湿原に農民を送り込み開墾する発想はなかったのでしょうか? 幕末の外国船がやって来るまでは、蝦夷地の開拓計画は存在していません。 そもそも、江戸時代の蝦夷地は「松前藩とアイヌ支配地」です。 松前藩の石高は「ゼロ石」です。 ※綱吉時代に、1万石程度と算出。但し、稲作で無くアイヌとの交易収入。 ※江戸時代に石高がゼロだったのは、松前藩と対馬藩のみ。 幕府では、蝦夷地は不毛の地として扱っていました。 >越後に匹敵する大湿原となれば、成功すれば結構な石高になるはずです。 今では、地球温暖化で真冬でも(過去に比べて)暖かいですよね。 が、当時は強烈な寒波・豪雪・強風です。 道具もない時代、開拓しようとはしないでしようね。 明治政府による「各藩の浪人」が屯田兵として開拓に赴きましたが、多種の死傷者を出しています。 今とは比べ物にならない粗末な土木道具では、技術的にも無理でしよう。 どこかの国の様に、刑法犯罪者・政治犯を強制的に開拓員として強制労働を命じる事も出来ません。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
釧路湿原はさすがに無理じゃないですか? 仮に現代あの湿原が保護されてなかったとしても あの場所に住む人は皆無と思います あの場所を開墾したところで 米は育たない 作物の栽培も無理 なら開墾の意味はありませんし
お礼
無理でしょうけど、その無理って現代人の後知恵かとも思っての質問です。 ご回答ありがとうございました。
- staratras
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No.2です。少し補足します。 江戸時代に蝦夷地のあちこちで試験的に様々な作物の栽培が行われたことは確かです。この中で稲は17世紀末に渡島地方で試験的に栽培が始まり、度重なる凶作(冷害)の被害を受けながら、明治以降次第にその範囲が北上していきました。実は渡島地方は道内では比較的温暖ではありますが、稲の収量に大きな影響を与える夏の時期の気温はそれほど高くなく、むしろ上川盆地や石狩平野など夏場短期間ではあるが高温になる地域の方が稲作には好適であることがその後わかってきました。 たとえば1993年の大冷害のとき、北海道の水稲の作況指数(平年を100とする)は40の大凶作でしたが、中でも道南の渡島は3、桧山は2で収穫ゼロに近い状態でした。この年の7月には、函館の最高気温が20度未満の日が16日もあり、本州から来た観光客が寒さに驚いたニュースもありました。 その点、渡島地方以上に夏場冷涼で気温が上がらない釧路・根室地方はまったく稲作には適していません。稲作にとって夏の低温が大敵であることは、たびたび冷害による凶作に苦しんだ江戸時代の農民や農政担当の役人は経験的に十分理解していました。天保の飢饉の直前、二宮金次郎(尊徳)が、初夏に食べた茄子の味が秋茄子のようだったので、天候不順であることに気づき、冷害に備えて雑穀を植えるように手配して領民が救われたという有名なエピソードもこの一例です。 冷害に強い品種改良や栽培技術が進歩した現在でも稲作が不可能な釧路で、江戸時代に水田を作ろうと考える農民や農政担当者はまずいないでしょう。無理をして稲作をしなくても、この時代の蝦夷地は漁業や林業などの産物が多く、またアイヌの人たちとの交易も盛んだったため、本州から米などの食料を購入できたのです。 蛇足ですが、江戸時代の北海道は米がほとんど採れなかったから飢饉のときには、本州以上に悲惨なことになったのではないかという想像は必ずしも正しくありません。飢饉の際でも日本全国の被害は一様ではなく、比較的被害が軽い地方から食料を購入できたからです。東北地方から飢饉を逃れて渡ってきた人もいたと言われています。蝦夷地は米中心の本州以南とは異なる経済構造だったのです。
お礼
なるほど米作り失敗の歴史が他所であったわけですか。 ご回答ありがとうございました。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
- ベストアンサー率31% (3132/9928)
道東は夏でも寒さとの戦いの土地ですからね。 どのくらい寒いかと言うと、連れて行った馬が凍死。生き残りが毛深くなるくらいです(後の道産子)。 アイヌでさえ手を出さなかった土地ですから、わざわざ実験はするだけ無駄だと分かっていたのです。 むしろアイヌが整地した土地を奪った方が楽、アイヌから毛皮や魚などを安く買い叩いた方がもっと楽という訳です。 ちなみに釧路湿原にはあちこちに底なし沼があり、無闇に立ち入るのは大変危険だとか。
補足
狩猟民族と思ってたのですがアイヌが整地するのですか?
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
>当時の技術では不可能かとは思いますが、江戸幕府は釧路湿原に農民を送り込み開墾する発想はなかったのでしょうか? 稲作技術の問題ではなく当時の品種では北海道では稲が育ちませんでした。 参考 開拓の風景 ―明治の礎・北海道開拓 ―水土の礎 http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/05.html 抜粋 明治4年、開拓使が招聘したトーマス・アンチセルは石狩地方の調査に際して稲作の無理を説き、理由として「灌漑の用いるところの河水にして寒冷なれば穂を出すに至らざるなり」と報告しています。 釧路湿原というか釧路地方は稲の生育期の6月~8月の間は霧が発生して稲の栽培には不向きな地域です。 参考 釧路の四季|天気|釧路地方気象台ホームページ http://www.jma-net.go.jp/kushiro/tenki/season/index.html 抜粋 釧路は、札幌・東京の約20倍ほど多く霧が観測されています。特に6・7・8月は、月の半分以上で霧が観測されるということになります。これをみても釧路は、いかに霧が多く発生しているかわかるでしょう。 江戸時代の武家の収入は米でした。 幕府も米が採れない蝦夷地には余り関心がありませんでした。 松前藩 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/松前藩 抜粋 藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった 中略 当時の蝦夷地では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。 幕府が関心を持つようになったのはロシアが南下政策で日本の近海にあらわれるようになった以降のことです。 参考 赤蝦夷風説考 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/赤蝦夷風説考 抜粋 江戸幕府で政治改革の主導権を握っていた老中田沼意次も、蝦夷地経略に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に早急に備える必要性を認識していた。 中略 蝦夷地の肥沃な大地や豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。それを受けた田沼がさっそく翌5年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし、翌天明6年(1786年)の田沼の失脚により、この探索隊は中途で断絶してしまった。 以降蝦夷地については耕作地としてではなくロシアに対する国防上の理由が優先されました。 伊能忠敬の測量を許可したのも国防上の理由からでした。 北海道を耕作地として位置づけて開拓をしたのは明治政府でした。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- staratras
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具体的に「何をどう開墾」しますか。 釧路湿原を含む釧路地方は一年を通して冷涼で、夏場の開花登熟期に高温が必要な稲の栽培には向きません。(釧路市では最高気温が30度以上となった日が観測開始から100年余りで十数日しかありません。それも大半が2000年以降で、20世紀中にはわずか4日!)現在でも米作は行われておらず、江戸時代には到底不可能です。といって江戸時代には幕末の開国まで酪農という発想はありません。(「函館経済史」(函館商工会議所)」によれば、「安政4年米人ライスが領事として箱館に赴任して来たので、乳牛1頭を渡した処、自ら搾乳を試みたが、それが本道での牛乳搾取の嚆矢である」とありました。 何とか可能なのは畑作でしょうけれど、寒冷地での栽培に適した作物を選んだうえで米などの主要な食料を本州から持ってくる必要があり、簡単なことではありません。 江戸時代の北海道の農業は、江差・松前や箱館近辺の道南地方で細々と行われていたに過ぎず、稲作は17世紀後半に箱館近くで試験的に始まりました。(「北海道水田発祥之地」という碑が函館の隣の北斗市(旧大野町)文月にあります)北海道の農業が飛躍的に発展したのは、明治になって開拓使が置かれてからです。道南でもこのような状況ですから、江戸時代に道東の釧路地方で農業開発を行える条件は皆無でしょう。その代り漁業や交易の拠点として江戸時代にクスリ会所が置かれて、釧路の発展のきっかけとなっています。 北海道というとどこも同じような気候だと誤解している人が本州では今も少なくありませんが、函館(道南)と釧路(道東)では大きく異なります。道南では栽培できる孟宗竹や杉が気温が低い道東にはありません。江戸時代に道南では何とか本州と同じような家屋で暮らせたかもしれませんが、道東では冬の厳しい寒さをしのげる住まいがなければ、本州から渡った和人には開発どころか通年の定住すら困難です。これを可能にしたのはストーブの輸入(導入)とガラス戸の家屋への採用だといわれており、どちらも開国以降のことです。 余談ですが、昭和から平成に変わる頃、上川農業試験場で開発された「上育397号」というコメの新品種が「きらら397」の愛称で「安くてうまいコメ」として人気が出てきた当時、転勤族だった回答者は北海道に住んでいました。ある農協の組合長が「これまで内地の米屋に「米を買ってくれ」と頭を下げ続けてきたが、初めて「米を売ってくれ」と内地の米屋が頭を下げてきた」と話していたことを今も覚えています。北海道の稲作もついに…という感慨がありました。
お礼
>「何をどう開墾」しますか。 湿原ならそのまま深田にしようと、そのまま稲籾を撒いて発芽するか、実を成すかどうか試験しなかったのだろうか?と思いました。
江戸時代は米本位経済で大名が生きるには本来は米が必要でしたが、当時の農業では沖縄と北海道での稲作は困難だったので、琉球7万石とか蝦夷地37万石と言いません。沖縄と北海道に対してはちょっとアクロバチックな運営が必要でした。そのため薩摩支配の沖縄、松前藩支配の北海道では主に交易を生業にしました。幕府隠密の、誰だったかな、歴史の教科書に出てくる有名な人ですが、松前藩のアイヌに対する非人道的な扱いに憤慨して報告したそうです。その後、明治以降の稲作技術の進歩によって北海道や沖縄で米がとれるようになりましたが、北海道は稲作ではなくむしろ北海道でしかできない農業が盛んになることによって、都道府県の中で唯一、県民所得と農家の所得が同じ水準という立派な農業を育て上げました。北海道の農家と鹿児島の農家が交流会をして、雪で何カ月も働けない北海道に比べて一年中働ける鹿児島の農家はさぞ金持ちだろうと鹿児島を訪問した北海道の農家が鹿児島の農業の貧しさに驚いたそうです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。