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中国の思想・・・
●中国の古典『四書五経』もいつか読んで見たいですが、中国には素晴らしい思想が沢山あるのになぜ日本に遅れをとったのでしょうか?(論語を読んだことはありますか・・・)
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中国の場合、四書五経などの古典に書いてあることが絶対で、それを前例として、新しい事態を当て嵌めて考えたので、新しい時代に対応できなかったと思っています。 日本にも儒教が入ってきましたが、儒学と言って五山の僧侶など一部の人がやっていただけで、一般の人に普及しなかった。 それに日本人はあまり伝統の重しがない、好奇心が旺盛だったので、すぐ新しいものに飛びつきました。 種子島に鉄砲が伝来した時も、刀鍛冶がそれをマネして、すぐ鉄砲を作っちゃったし、それに幕末に蒸気船が来航した時、蒸気船に乗り込んでつぶさに観察させてもらって、1年後には日本人の手で、蒸気船を作っちゃった。 思想的に伝統がない、伝統の重しがない、というのが日本の特色だと思います。 ところが中国は、「科挙試験」というのがあって、官僚はみんな四書五経の知識がないと合格しないから、一生懸命勉強し、そこから何ごとも前例を重んじるという精神が出来上がり、西欧の近代的な制度や技術を学ぶことを怠った。 その上、中国には「中華思想」と言って、中国が世界の中心と思っていて、西欧などは世界の外れと思っていた、ということがあると思います。 それがあったから、西欧から学ぶことは、自尊心が許さない。 ただ、日本の長所は同時に欠点で、思想が日本の土壌に根付かない、ということがあると思います。 仏教にしろ、儒教にしろ、キリスト教にしろ、表面的にしか、影響を及ぼさない。 日本人は儒教と言ったらすぐ「論語」を連想しますが、中国で儒教と言ったら、四書五経の内、何といっても「礼記」です。 儀式、儀礼、作法、規律、戒律、祭式、などを定めたもの。 なぜ、日本人が「論語」が好きかといえば、そこには「礼記」のような規律・戒律が論じられていないからだと思います。 昔、仏教が日本に伝わった時、仏教の戒律を廃止したものだから、「私度僧」というのが増えちゃって、それで困って中国から鑑真和上を招いて、国立戒壇というものを作り、僧侶に「戒律」を授けなければならなかった。 ところが、最澄はその戒律を骨抜きにしてしまった。 それだけ、日本人は規律・戒律が大嫌い。 儒教は、形が大切で、中身は問わない、のに反し、日本人は形はどうでも良くて、中身が大事。 日本人が「論語」を好きなのは、そうしたことからだと思っています。
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- ichikawa2017
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「日本に遅れをとった」とはどのような事柄についてでしょうか。 現時点ではGDPでは既に日本を凌駕しています。 封建制度から脱却する俗に言う近代化で遅れをとったということでしょうか。 これであれば、言い換えればなぜ西欧化が遅れたかということになるかと思います。 この理由を「思想」という面から考えますと、中国には「素晴らしい思想」と言われるものがあったからだということができます。 一つの思想が広がる際には受け入れる側に確固たる土着の思想がある場合は受け入れられ難いという特徴があります。 これは、思想の一つである宗教が広がる過程でも世界的にみられる現象です。 中国で仏教が広がるにはおよそ300年の時間を要しましたが日本では50年たらずで広まりました。 19世紀の中国と日本でも同じようなことが起きていたということです。 しかも中国では旧来の封建制度を維持するか共産(社会)主義を受け入れるか自由主義を受け入れるという三つ巴の激しい内乱が起きていました。 日本では武士階級内での内乱と政権交代があっただけでした。 新たに生まれた明治政府も皇族、侯伯爵、士族、平民などと名称を変えただけで身分制度を踏襲していました。 明治革命と言われずに明治維新と呼ばれるのはこのためです。 「思想」という面では江戸時代の中頃以降に国学というのが発達していました。 中国からもたらされた思想からの脱却が始まっていました。 水戸徳川家では「大日本史」という歴史書が編纂されました。 1657年(明暦3年)に始まり途中何度か中断されましたが1906年(明治39年)まで続きました。 明治維新や大日本帝国憲法などに深い影響をあたえました。 つまり当時の日本には中国とは異なり西欧思想を受け入れる素地が既にできあがっていたというす。 四書五経にご興味があるようですが、老子を読まれることをお勧めします。 為政者のモラルを重視する論語(孔子)に対する一種のアンチテーゼです。 中国の人達の思想に論語と同様に深い影響を与えました。 現在は共産主義社会ですが未だに一般の人達の価値観に残っています。
お礼
論語を読んだ事があります、とても役に立ちそうです、ご回答ありがとうございます。
- yukiyamamomo
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井上羊水なのか奥田民雄なのか派フィーなのか 難しいのですが。遠くに来たなとか思います。アウェーですね。 奥田民雄はvrなのですか。 綿シアgこういう疑問とか話題をするとは こういう勉強はどういう感じで勉強していけばよかったのでしょうか。 いまさらな気もしますが。
お礼
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- nekosuke16
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紀元前から易姓革命を繰り返しながら、その都度、新たな秩序や思想が求められる中で儒教や道教などの諸子百家が登場し、そこに中国思想の原点が生まれ、長くその影響が続く。 一方、第二次世界大戦以前の中国というのは、為政者の変遷に伴い伸縮を繰り返ながらも、常に広大な面積を有し、清王朝に至って尚、現在の中国を越えるほどのものであった。 しかし、優れた思想や文化がありながらも、その広大な面積があるが故に、清王朝といったところで、末期の1900年代に入って尚、昔の戦国時代の日本さながらに、織田や武田のように、それぞれの地域を統括する有力者が点在するといったものであり、現実には王朝という名とは裏腹に、そもそも国家の輪郭自体が非常に脆弱なものであり、だからこそ、アヘン戦争や日清戦争において、その軟弱な体制を世界に晒すことになってしまった。 たしかに、儒教などは聖徳太子以前に日本に伝来し、江戸時代以降は幕府の封建思想の基礎としての朱子学などが採用され、そうした教育の流れがその後の日本人に通低する価値観の基本となるほどにまで影響を与えている。 しかし、かの大戦以前のおぼろげな国家の脆弱な体制ゆえに、人心や文化、思想の面でも、これといった教育がなされている筈もなく、日中戦争から太平洋戦争に至る経緯の中で、毛沢東が蒋介石にとって変わり、戦後を迎えることになるが、この毛沢東こそが文化大革命により、過去の中国の歴史を全否定し、貴重な歴史遺産や偶像崇拝を禁止し、中国から独自の文化と歴史と思想教養までも抹殺し、さらには、こうした姿勢に批判的な者に対しては一族郎党に至るまで徹底的な攻撃を加え、中国人の生命のみならず、人心をも破壊していった。 「中国には素晴らしい思想が沢山あるのになぜ日本に遅れをとったのでしょうか?」 一つには、やはり、持て余すほどにまで広大な面積が長らく中国として掌握し切れずに、国家という概念を持つまでに至らなかった事実。 もう一つが毛沢東による中国文化や思想の破壊による人心の混乱と破壊。 特に文革による人心の破壊は、生き抜くためには嘘は勿論のこと、人を騙し、物を盗み、他人を殺してでも自分を優先しなければならないほどにまで追い詰められた中から、儒教思想とは程遠い現在の中国人の身勝手さが生まれたようにも思います。 まあ、中国が日本に遅れをとったというよりも、狭い国土の日本のほうが人心や教育を含めて掌握し易かったのかもしれませんね。
お礼
とても役に立ちました、含蓄ある回答ありがとうございます。
お礼
中国の歴史について良く分かりました、孟子も読みます、ご回答ありがとうございます。