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火牛の計は実在したか?
昔の戦争で牛の尻尾に火をつけて敵陣に突っ込ませたって作戦が時々ありますけど、パニックになった牛が上手に敵に突っ込んでくれるか疑問です。自分の方に突っ込んできて負けちゃう可能性も高そうですけど。そんなに有効な作戦ならなんでもっと使われなかったんですか?
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やはり牛の制御ができないのが一番の理由でしょう。火牛の計は他の回答者様のおっしゃるとおり、斉の田単が用いましたし、本邦では木曽義仲が倶利伽羅峠で、北条早雲が小田原城攻城戦で用いたと言われています。火牛の計の目的は、牛の狂奔によって敵陣を混乱させ、その混乱に乗じて敵を討つことで、牛によって直接打撃を与えるのではありません。また、制御の難しい牛を用いるからには、この計が使える状況はおのずと限定されてきます。田単の場合は包囲下での籠城で、周囲は敵ばかり。牛がどこに突っ込もうとも敵陣ですから、先に牛を放ち、混乱の機を測って出撃すればいいのです。倶利伽羅峠の場合は、火牛の計が使われたとしてですが、山岳の隘路で平家の大軍に突っ込ませた訳で、こちらは牛の進路が狭くある程度限定されるでしょうから、うまく使えば効果があったかと思います。いずれにしても、特殊な状況下で適切に用いれば大きな効果を得られるが、いつでもどこでも使えるような計ではないということなんでしょうね。
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- eroero4649
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火牛の計とか、三国志に出てくる連環の計とか、そういう妙に凝って都合よく上手くいく計略というのは、大抵後世の創作のようですね。
- takuranke
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2013年頃の神奈川新聞だったかに、 火牛の計についての記事があり、 確か小田原城奪取を成し遂げた「火牛の計」は津波に便乗した奇襲で、牛は津波の比喩とかいうものでした。 元記事は。静岡県伊東市の市史・災害編だったと記憶しています。 ちなみに 小田原城の北条早雲像にある牛には角に松明がつけられています 義仲の火牛の計と同じですね。
北条早雲が1495(明応4)年、小田原城奪取を成し遂げた奇襲戦。 もともと中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。 この方法であれば、尻をあぶられてたまらない牛は前方に猛突進するというのは、実際に上手くいくかどうかはともかく、理屈としてはあっている。