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新撰組の山崎丞

結局、水葬ではないのでは?

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  • shpfive
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回答No.1

陸上で埋葬された可能性もありますし、不明としか言いようがありませんね。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E4%B8%9E >慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの最中に重傷を負う。1月13日の江戸へ撤退の際、富士山丸の船上で死去。紀州沖で水葬されたとされている。その際、近藤勇は自身も肩の鉄砲傷がひどく寝込んでいたが、別れを告げるべく正装し代表として追悼の言葉を読んだという。近藤は山﨑を上述の通り信用し可愛がっていたようで、彼の死に涙を流し、土方歳三に「山﨑は良い奴だった。あいつはこんなに大勢の人に見送られて幸せだ」ともらし、船長に深く頭を下げて礼を言ったという。ただ船に同乗していたであろう永倉や島田らが残した手記では、船上での山﨑の死や水葬に関して一切触れられていない。一説には、鳥羽・伏見の戦いで銃で撃たれ死亡したともいわれ、陸上で埋葬された可能性もあるなど、最期については不明な点も多い。 →戦いの最中に重傷を負ったわけですから、そこから船上で13日までどのような様子だったのかは気になります。

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質問者

お礼

不思議な事に長生きした永倉の文献には水葬と一切書いてないです。おそらく、鳥羽伏見の戦いで負傷し、陸上で戦死したのだと私は思ってます。死を見届けたとする文献も有ります。

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