京都に着眼するのは間違いではないが、薩長VS新撰組といった単純な構図で歴史を捉えようとするのは間違いです。幕末の動乱の中で、新撰組もそれなりに役割を果たそうとしていたけど、決して新撰組を軸として世の中が回っていた訳ではありません。
1850年代の将軍継嗣問題における一橋派と南紀派の対立、条約勅許問題における開国派と攘夷派の対立の舞台は京都です。もう江戸城の中だけでは何にも決められない時代になっていました。だから朝廷の権威によって物事を決めようという動きになるわけです。老中・堀田正睦は朝廷の勅許を得ようと、上洛したものの攘夷派の工作によって失敗します。攘夷派は条約締結には朝廷の勅許が必要だと幕府をまとめておいて、ちゃっかり朝廷を条約反対で丸め込んでいた訳です。
開国派もそれを予想して井伊直弼を大老に就任させることで巻き返しを図ります。井伊直弼は、強権発動で朝廷の勅許なしでの条約調印を決行し、将軍後継を徳川慶福に決定し安政の大獄で一橋派・攘夷派を弾圧します。安政の大獄で拷問死した一人が先の朝廷工作に関わっていたと目された元小浜藩士の梅田雲浜でありました。時の京都所司代は、小浜藩主の酒井忠義で酒井も南紀派・開国派で井伊直弼とのつながりもあったわけです。その酒井忠義に首を切られていわばフリーの身分で京都で工作活動をしていたのが梅田雲浜だった訳です。梅田雲浜にすれば、大老・井伊に尻尾を振ろうとする元主君に売り飛ばされたようなもの。それはともかくとして、当時の京都には藩との関係が切れた浪人が集結して公家の抱き込みに精を出していたということなんです。京都所司代の酒井忠義はそうした動きを掴んでいて、井伊直弼の強権発動で一橋派・攘夷派を一網打尽にする機会を待ち構えていました。
ところが井伊直弼は水戸藩の過激派によって暗殺されてしまう。桜田門外の変によって安政の大獄で弾圧されていた一橋派・攘夷派は復権を果たし、勅命によって一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就任します。文久の改革は島津久光が公家と結託して公武合体路線によって混乱する幕政を立てなおそうとするものでした。
一方、一橋慶喜の実家の水戸藩は路線対立で大混乱に陥り、過激派は一橋慶喜に直訴しようと天狗党の乱を引き起こすが、一橋慶喜に見捨てられて壊滅してしまう。
島津久光は江戸からの帰還途上に生麦事件を引き起こしてしまい、薩摩藩は薩英戦争で孤軍奮闘するハメに陥る。その直前には寺田屋事件で酒井忠義襲撃を企む薩摩藩過激派を粛清するという慌ただしさ。
ここまで幕末史の断片を駆け足で論じましたが、一冊の本になってもしかたないので、個々らへんでまとめたいと思う。
こういう世情騒然という時代に政局の中心となった京都では長岡藩主牧野忠恭が京都所司代を自分じゃ務まらないとして辞任したぐらいの騒動は日常茶飯事だったけれど、それは武士の権力闘争であって、押し込み強盗なんかと一緒にするのは間違いです。
こういう世情騒然の時代に、いままでくすぶって冷や飯を食わされていた浪人までもが、一旗揚げて出世のチャンスだと京都に集結していました。その意味では新撰組もこの機に乗じて一旗揚げようという浪人・百姓の集まりだったわけです。反幕府勢力の取締といっても、幕府自体が権力闘争で腰が落ち着かないのに、そもそも反幕府勢力って誰のこと?という時代なんです。
1863年に会津藩・薩摩藩を主軸とした公武合体派が八月十八日の政変によって京都から長州藩を追い出します。そうした八月十八日の政変によって長州藩が反幕府勢力の立場になってしまった訳です。
「池田屋事件では存在感を大いに発揮しました」というより八月十八日の政変が起きたことで新撰組の明確な業績目標が立ったということです。
八月十八日の政変の直前には、長州藩による米仏蘭艦船砲撃事件があって、このままだと長州藩によって日本は欧米列強との戦争に巻き込まれてしまうといった危機感が公武合体派にあったのだと思います。
なんども書き込んで申し訳なかったけど、新撰組中心に世の中が回っていたなどとは考えてほしくないからです。新撰組は時代に翻弄され、歴史の仇花として埋もれていたのが昭和の時代に小説家によって発掘されたといった話なんです。
お礼
ありがとうございました!