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切支丹宗門御改帳(嘉永7年)に、村の寺、先祖の家族

切支丹宗門御改帳(嘉永7年)に、村の寺、先祖の家族全員の名前と年齢が載っていました。山形県のこの地域でキリスト教が布教したとは思えません。キリスト教徒でないかどうかを確かめるために全国的な調査が行われたのでしょうか。

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回答No.2

>山形県のこの地域でキリスト教が布教したとは思えません 布教していたというよりも当時の米沢上杉領ではキリシタンの取り締まりが緩やかであったことから全国から信徒が移住してきていました。 米沢上杉家の初代の当主は豊臣家の重臣であったことから徳川氏の法令には素直に従いませんでした。 二代目藩主は幕府に抗しきれなくなり寛永5年(1629年)に領内の宣教師や信徒を処刑しました。 処刑地は現在米沢市内に北山原殉教遺跡として保存されています。 >キリスト教徒でないかどうかを確かめるために全国的な調査が行われたのでしょうか。 秀吉の時代から江戸幕府の初期にかけて禁教令が度々出されていました。 さらに江戸幕府は宗門改という制度を設けました。 制度としては調査というよりも登録制度でした。 現在の住民登録のような制度でした。 全国の仏教寺院が宗門人別改帳という戸籍簿を持っていて管理していました。 御質問の切支丹宗門御改帳(嘉永7年)がこれに相当します。 居住地を離れて旅に出たり引っ越す際には身分を証明するものとして寺院が発行する証明書が必用でした。 この人物は○○寺の檀家であるという証明です。 遠隔地に引っ越した場合は同じ宗派のお寺の間で申し送りがされていました。 蛇足 この禁教令や宗門改については歴史的な経緯があります。 秀吉にせよ江戸幕府にせよキリスト教の教義に対して禁止していた訳ではありませんでした。 ポルトガルやスペインの植民地政策が最大の原因です。 ポルトガルやスペインは植民地化するのに当たってまず宣教師を派遣してこの宣教師の保護を理由に軍隊を送り込むという手法を使っていました。 日本で宣教していたイエズス会は極めて先鋭的な教団で宣教師が居住する地域に治外法権を認めさせていました。 一方現在の長崎県の西部は半島と島嶼が多く米作に不向きなことから領主は交易に頼っていました。 長崎を領地としていた大村氏がポルトガルとの交易を独占する目的でイエズス会に長崎の街を提供して治外法権を認めていました。 九州を平定した秀吉がこのことを知り激怒してイエズス会の宣教師(バテレン)を国外に追放したのが禁教令の始まりです。 豊臣氏亡き後も家康がこれを継承して全国にバテレン追放を徹底させました。 キリスト教の布教などに全く関心がないオランダの東インド会社のみと通商するようになったのもこのためです。 江戸時代を通じて長崎の出島にこのオランダ東インド会社の商館を設けていました。 東インド会社に商館を認める条件としてオランダ船が入港する度にヨーロッパの情勢を報告させていました。(オランダ風説書) 江戸時代を通じて江戸幕府は当時としては最新の世界情勢の情報を入手していました。 これを独占秘匿していただけです。 幕府内部でも極一部の関係者が知っているだけでした。 一部の人間だけとは言えナポレオン戦争の経緯や顛末も知っていました。 アヘン戦争の顛末も知っていました。 幕末のペリーの来航も事前に知っていました。 幕府が開国を決意して朝廷の了解なしに通商条約を締結したのも世界情勢を知っていた為です。

snow990jp
質問者

お礼

大変詳しく教えていただき、ありがとうございます。 山形でもそれほど大規模な殉教遺跡があるとは、知りませんでした。 今度訪ねてみようと思います。 ありがとうございました。

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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.1

>全国的な調査が行われたのでしょうか。 幕府は、1664年頃に「宗門改め制度」「専従役人の常駐」を諸藩に命じています。 ですから、キリスト教徒か否かを確認する事だけが目的ではありません。 質問者さまがご存知か否か判りませんが、宗門改め=戸籍・住民票の意味合いもあります。 手形(身分証明書)も、寺が発行しています。 そうそう、山形には「北山原殉教遺跡」がありますよね? 確か、1630年頃のキリシタン処刑場跡です。

snow990jp
質問者

お礼

大変詳しく教えていただき、ありがとうございます。 山形でもそれほど大規模な殉教遺跡があるとは、知りませんでした。 今度訪ねてみようと思います。 ありがとうございました。

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