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風土記において頻出する景行天皇の記録について

こんばんは 先月ふと思い立ち各風土記における天皇の記録について自分なりに簡素な統計を取ってみたところ全体的に景行天皇、倭健天皇(便宜上こう記述します)の記述が頻出しており、豊後国では特にその傾向が顕著でした。 ここで質問なのですが、どうしてこの二人の記録が風土記における天皇の記録の大半を占めているのでしょうか? 日本古代史について浅薄な知識しか持ち合わせていないので前後関係は未だに理解出来ておりませんが、ご教授のほどよろしくお願いいたします。

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回答No.2

No.1です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼に 「つまり景行天皇の名を使用するフォーマットが前もって存在しており、風土記はそれに従って記録されていたという可能性もあるということでしょうか」 とありますが、記載すべき項目については指示がありましたが内容については特段フォーマットのようなものはなかったかと思います。 風土記撰上の詔は律令制で設けられた国の国衙に対して出され国衙の官僚であった国司が作成に当たっています。 国司は大和朝廷から派遣された官僚でした。 風土記は当時は解という下級官僚が上級官僚へ上げられる公文書として扱われていたとされています。 参考 風土記 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/風土記 記載すべき項目の中にその国に伝えられている事柄を記載するようになっていました。 お調になられた風土記が出雲、播磨、肥前、豊後、常陸のものであれば景行天皇の九州巡幸や日本武尊の東征などは出雲を除く四か国の地方官僚が中央政府に上げるには格好の話題です 結果的に当初のご質問にありますように景行天皇と日本武尊が主体になったと考えられます。 つまり風土記は自主的に記録されたものではなくあくまでも地方官僚が中央政府(天皇)に出す公文書として作成されてものだということです。 天皇にまつわる話題が多くなるのはやむを得ません。

yabeeeee107
質問者

お礼

詳細な説明、とても勉強になりました。 ありがとうございます!

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回答No.1

>どうしてこの二人の記録が風土記における天皇の記録の大半を占めているのでしょうか? お調べになられたのは『出雲国風土記』『播磨国風土記』『肥前国風土記』『豊後国風土記』『常陸国風土記』でしょうか。 平たく言えば、二人は出雲を除いた四カ国に深い関わりがあったからということになります。 他の国の風土記が残されていませんが、もし遺されていれば他の天皇の業績も記載されていて風土記全体で考えれば二人が大半ということにはならなかったかと思います。 つまり残された風土記がたまたま二人が深く関わりあっていた国のものだったということです。 詳しくは下記のサイトをご覧下さい 参考 景行天皇 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇 抜粋 第12代景行天皇はこの状態を憂い、自ら乗り出して九州地方の略奪集団を平定し、 あわせて熊襲を朝廷に所属させる目的で九州へ出征することにした。 景行12年(312年) のことである。 まず、京都郡(福岡県京都郡)に上陸し、周辺の様子を調査した。 豊後( 大分県竹田氏周辺)に土蜘蛛(略奪集団)がいると聞きこれを退治した。 そこから高千穂 (宮崎県高千穂町)へ回り、山越えにて西都原周辺に出た。ここに高屋宮を建てて拠点と した。景行天皇はこの地に6年(通常紀年で3年)いた。 この地にいるときに南の曽於族を 平定 ... 奈良盆地にあった勢力が全国を平定して大和朝廷として形作られる過程で九州地方にあった勢力や関東地方などにあった勢力を攻めて滅ぼしていったということは考えられます。 この点については魏志倭人伝などには卑弥呼の時代に倭国大乱として度々戦乱があったをうかがわせる記述があります。 これを日本書紀などでは景行天皇と日本武尊の二人の業績としたと思われます。 ただ景行天皇の九州巡幸についてはなぜか古事記には記載されていません。 この為に景行天皇が実在の人物であったのか否かという議論があります。 風土記というのは成立間もない大和朝廷に対する地方の官僚による一種の報告書ですので関わり合いのあった天皇に関する記述が多いのも当然のことかと思います >前後関係は未だに理解出来ておりませんが、ご教授のほどよろしくお願いいたします。 当時の系統だった文献資料は古事記、日本書紀の二種類だけです。 これ等も大和朝廷が成立した後の時代に作成されたものです。 大和朝廷が成立する過程を記録した史料ではないということです。 この他には中国側の史料があるだけですがこの中国側の史料も景行天皇や日本武尊の時代に相当する時代のものが残されていません。 歴史学的にも日本の古代史を解明するのは難しいことですので混乱されるのも当然のことかと思います。 特に歴史マニアによる邪馬台国論争などが混乱に拍車をかけています。 景行天皇や日本武尊の時代というのは考古学的には弥生時代後期から古墳時代ということになります。 古墳の主なものが宮内庁の管轄になっていることもあり詳細な発掘調査が行われていないことも影響しています。

yabeeeee107
質問者

お礼

つまり景行天皇の名を使用するフォーマットが前もって存在しており、風土記はそれに従って記録されていたという可能性もあるということでしょうか

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