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国語の試験に意味はあるのか?
以前も質問したように、漢字には様々な異体字があることが多いうえ、文章を読み解く試験では出題者の嗜好が反映されることが多くて不公平で、時には引用される小説などを書いた本人でも正解できないことすらあるそうです。 文章を読み解く問題なら他の科目の試験を正解できれば能力があると認められるし、国語の試験というのはそもそも存在意義があるのでしょうか。
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試験は,ある一定の時間に 作成者の意図とした能力を受験者が有するかどうかを判断するものですよね。 国語においては,個々の問題であなたが疑問に思う事はどの教科でも,研究者や学者レベルからすれば山ほどあります。私の専門分野であれば,センター試験でも,どこかの二次試験でも厳密にはそんなこと言い切れないなんて出題は頻繁にあります。なので試験ではクイズのように回りくどい制限をつけていき,答えが一つしか無いように持っていくのが常套手段になっています。 つまり国語だけの問題では無いということが一つ。 もう一点は,そのルールで,その時間で読み書きができるかどうか,言わばIQテストをされているような物なので,意味があるかどうかではなくて受けないと行けないという代物だということです。他の問題の設問だけでは試しきれないあなたの能力を試すためのIQテスト。 国語の授業で教えて貰うことを総合すると大学入試であれば12年学習してきたことを総合して能力がちゃんとついてこれれば,このある種のパターン化された国語という分野に関して,時間内にこれだけの質問に答えられる人を,官僚にしたい。医者にしたい。弁護士にはこれくらい必要。 つまり国語の試験とはクイズ,IQテストの国語専門分野版のようなものです。日本全国で共通した認識を持ってもらうのが一番でしょうけど,今のところその大学に入るのに必要な能力を試され,その能力をある程度持っている人だから,ここから教育を始める そしてその4年間を過ごしたひとだから,うちの会社で採用するチャンスがある。試験とはそのような性質の物であり,感じ方や不公平があって正解など無い!ということはできますが,それはクイズを答える上でそうならないようになっている「制限」を見落とした為のミスを受験者がごまかしているだけのことなのです。
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- fujic-1990
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> 国語の試験というのはそもそも存在意義があるのでしょうか。 ある、と思います。 例えば漢字ですが、学校で習った形の漢字しか知らない人は、異体字で書かれた文章を見て、「分からない」ということで放り出すかもしれません。 マジメに読んでも、分かる文字だけ読んでいくみたいな作業になりますので、文章を理解できないカモしれません。間違った意味に解釈してしまうかもしれません。 想像を交えてなんとか理解した人からは、「この人は字を知らないバカな人」と思われるかもしれません。 あるいは、例えばサマー・バケーションを英語式に発音するヤツはたいがい嫌われますが、あれと一緒で、異体字を知っている人からも「なんだコイツ、知識をひけらかして。やなヤツだ」と、人間性を誤解されたりするかもしれません。 異体字を書くことは、その漢字を使う人にとっては「損」です。 漢字のテストは、生徒がそういう損を被らないように、(学校で習った漢字しか知らない)一般人と同じ漢字が書けるようになったかどうかを調べるものだと理解すべきなのです。 出題者の嗜好が反映された文章問題でも、多くの人は、出題者の嗜好通りの回答をしているのでしょ? あるいは出題者の嗜好が反映された正解例を見せられて「なるほど」と思ったか、のどちらか。 ならば、質問者さんも「出題者の嗜好通りの回答」をしてみせるか、「なるほど」と同意するセンスを身につけないと、周囲の多くの人と、正確な会話が成り立たないということになります。 例えるなら、左利きの人でも「右、お箸を持つ手のほうを向いて」と言われたら、右利きと同じような向きを向く、というセンスを持たないと、多数派の右利きの人との会話は成り立たないのです。 時々ニュースなどで、「国民の8割が読めない漢字」とか「9割が意味を誤って理解している熟語」などについてふれていますが、私はその言葉を使うとき、「正しい意味で使うべきか、一般の人が使っている誤った意味で使うべきか」と悩みます。 例えば、「気の置けない友達」とか、「君は気が置けない」という言い方などです。 言葉というのは、相手に、こちらの思いが正しく通じてナンボのものです。褒めたツモリが侮辱されたように理解されたら会話になりません。 同じ言葉を見たら読者と同じ行動・反応をするセンスをもたないと、相手が理解できるようなレベルに合わせないと、こちらの言葉は相手に伝わりません。 国語の授業はそのための訓練であり、テストは、その技術に熟達したかどうかを知るための手段として、十分な存在意義を認められるものだと考えます。
- sanguis
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どうなんでしょうね。受験勉強でガッツリ現代国語を勉強してきた世代?のものなので、学習した物がどれくらい身について役立っているのか分かりづらくなってしまっていますが…。 漢字についておっしゃってますが、学校で基本的に教える漢字は常用漢字表にある漢字ですよね。あれは読めないと日本人として恥ずかしいですよね。難読語はおっしゃるとおり個人の嗜好も少なからずあると思います。ただ読めるとかっこいい。ただし公用文のような法律を書く場合に使用できる漢字は限定されているので、それだけ読めれば実生活を過ごす上では常用漢字だけで十分かもしれませんね。 文章理解など決められた時間で多くの文章を理解する能力を鍛えるものは、練習するほど多く正確に読めるようになりますよね。 古文などは私は嫌いでしたけど、欧米人にとってはラテン語のような感覚なんですかね、読めると古い書籍などが原文で読めるようになりますよね。 現代国語という科目は基礎的教養がかなり影響するので、試験のために投入する勉強時間に比例しにくいのが良くないかもしれませんね。
https://okwave.jp/qa/q9420217.html でいっさいお礼を書いていないことから判断されるように,あなたには日本語で論理を応酬する能力がないようです。有効な反論ができなければ,「お説ごもっとも」を礼をのべてもいいんですよ(笑)。 >文章を読み解く試験では出題者の嗜好が反映されることが多くて不公平で、 何人もの出題者や第三者のチェッカで検討し,国語力や常識,思考力があれば全員一致する答えが導きだされるような問題をつくります。別の解釈ができるような問題は却下されます。まともな大学入試問題なら,ということですけど。 >時には引用される小説などを書いた本人でも正解できないことすらあるそうです 上述したように,著者がどう思おうと関係なく,出題者全員が「常識的に考えるとこうだ」と認める解答を正解とするのです。ふつう,小説家ふぜいよりも出題者のほうが学力・学識があります(笑)。 >国語の試験というのはそもそも存在意義があるのでしょうか あります。国語力(古典をふくむ)がないといろいろな文献を読みこなせませんし,口頭の討論もできませんし,レポートや答案も書けませんし,教養ある発言もできません。だからおおくの学部・学科で入試に「国語」を課しているのです。
- naclav
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あなたの挙げる理由は「もっと良い国語の試験がありうる」事の説明にはなりますが「そもそも国語の試験に意義がない」という結論には不十分です。 >文章を読み解く問題なら他の科目の試験を正解できれば能力があると認められる 正解できればおっしゃるとおりですが、他の科目の試験に正解するには「文章を読み解く能力」以外に「その科目の知識」が必要となります。 そのため、他の科目の試験だけでは、正解できなかった受験者が「その科目の知識は身についてないが、文章を読み解く能力はある」のか「文章を読み解く能力はないが、その科目の知識は身についている」のか「文章を読み解く能力も知識も欠けている」のか、区別がつきません。 「知識がまったく要求されない、文章を読み解く能力だけを問う試験」もあったほうが受験者の能力を測る精度は高くなります。 つまり「国語の試験を実施しないよりも精確に受験者の能力を測る」という意義が国語の試験にはあるわけです。 現状の国語の試験がその目的にじゅうぶん機能しているかはともかく。
- as9
- ベストアンサー率15% (73/480)
ありますよ この掲示板を読んでいてそう思いませんか? 日本語の不自由な方の多いこと多いこと
お礼
「正しい日本語」って何でしょうね。あなたが批判している相手を含め、ほとんどの人は自分が使っている日本語を正しいと信じていると思いますよ。多分。
補足
私の質問は基本お礼を書き込まないことを前提としています。これは私の流儀ですので、これに不満であれば回答を寄せていただかなくて結構です。 うっかり回答をしたりしないよう、ブロックにさせてもらいますね。これでお互い不愉快な思いをしないで済むでしょうから。