デリダの「差延・ディフアランス」はソシュールの「差異・ディフェランス」から持ってきたもので、ソシュールの「差異」が、語と語のネガティヴな差異、といったように空間的なものとしたら、デリダの「差延」は語それ自体の時間的な差異というものです。
ドゥルーズは、語と語の差異を「程度の差異」といい、語自体の差異を「本性の差異」と言いました。
たとえば私たちは机があって、テーブルがあるという場合、机とテーブルの差異・違い、は誰でも分かります。
しかし、机自体の差異については、分からないと思います。
ベルグソンの哲学をドゥルーズは「差異の哲学」と言っていますが、ベルグソンは時間は差異によって成り立っていると言っています。
そして私たちは時間自体に差異があることは、分かりません。
それは、机自体に差異があることを私たちが知らないのと同じです。
ベルグソンは時間は運動するもの、持続するものと言っていて、それを知ることができるのは知性ではなく、直観であると言っています。
なぜなら、知性は固定したもの、静止したものなら知ることができるが、運動するもの、持続するものは知ることができない、と言っているからです。
これを言い換えると、人間は「程度の差異」は知ることができるが、「本性の差異」は知ることができない、ということになります。
そしてドゥルーズは、「多様性の哲学」を唱えています。
それは、プラトンにしろ、カントにしろ、古来、哲学では、「同一性」ばっかり唱えていて、「差異性」を無視してきたからです。
カントは、この世界は多様性(的)なのに、それをカオスと言って、人間がカテゴリーと統覚によって統一することで、カオスを秩序あるものとする、あるいは世界は一つである、といってきました。
ドゥルーズはそのカントの先入観、つまり世界は人間がそれを統一する以前はカオスというのは、先入観に過ぎない、と言って、世界は多様性(的)であって、みんな個々の物(者)は違う・差異があるのだと言います。
前置きはそのくらいにして、あなたの質問に戻りましょう。
「他人の成功例や、他人の考え方も、必ずしも自分に当てはまるとは限らない」といっていますが、それは他人の考えと自分の考えは違う、という意味でしょうか?
人それぞれ考え方が違う、それがデリダの「差延」とか、ドゥルーズのいう「多様性」というものだ、ということですか?
どうですかねえ(笑)?
「程度の差異」に過ぎないのではありませんか?
そして「歴史から学ぶことも大事なのでしょうけれど…・」と言っていますが、歴史を学ぶよりも、デリダの「差延」、ドゥルーズの「多様性」から学ぶ方が良いという意味でしょうか?
それもどうですかねえ(笑)?
「我流、その人本人に適した方法論」があるから、「歴史を参考にするだけでは足りない」という訳ですネ?
歴史は「程度の差異」だから?
では、お尋ねしますが、あなたの「我流、本人に適した方法論」というのは何ですか?
デリダの「差延」にしろ、ドゥルーズの「多様性」にしろ、方法論ではありません。
かつての、プラトン以来の哲学の、そしてカントの、「同一性の哲学」の批判です。
補足
ご回答ありがとうございます。 勉強不足で申し訳ございません。 同一性の批判だったのですね。 「他人の成功例や、他人の考え方も、必ずしも自分に当てはまるとは限らない」と私が思ったのは、人それぞれにも差異があるとすると、みんな個性とか脂質が違ってくるので、他人の成功例や考え方は自分に当てはまらないのかなー、と思った次第です、、、 でも、確かに「程度の差異」かも知れませんね>< 「歴史から学ぶ」という事も、他人から学ぶ事と似ていると思うので、歴史と自分との間でも差異があるのかなー、と思った次第です>< こういう事を考えていて、自分に適した生き方とか、自分に適した考え方は、 結局は、自分の個性の中から作るものなのかなー、と思って質問致しました。 なので、 >>「我流、本人に適した方法論」というのは何ですか? というご質問への答えになっていないかも知れないのですが、 自分に適した方法論の答えは、各々みんなに差異があるので、答えの要素の全てを自分以外から引用する事は不可能で、 最終的には自分の中から作らなければならないのかなー、と思って質問しました。 お忙しい中恐縮ですかご教授何卒よろしくお願い致します。