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昨今の多様性の潮流について

最近の現代思想は、「多様性」や「相対主義」とよく言われていますが、 そもそも、 どうして多様性という考え方が流行る事になったのでしょうか? 歴史的に見ても多様性が流行るのは必然的だったのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • koosaka
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回答No.1

「どうして多様性という考え方が流行ることになったのでしょうか?」という質問は転倒しています。 むしろ、この世界はみんな多様的なのに、それをどうしてみんな同じ、同一性と言うのでしょうか?と言うのなら分かります。 古代ギリシャのプラトンは、「多に対して一なるものがある」、多様性を否定して、同一性があり、それを「イデア」と言いました。 この考えは転倒しています。 むしろ、一なるものがある前に、多がある、「同一性」の前に「差異性」がある、と言うべきです。 この世界に存在するものは、みんな違います。 みんな同じに見えるけど、ちょっとづつ違う。 そしてカントはこの世界に存在するものはみんな違って、多様性があるのに、それを自我(主体)によって統一し、世界はあたかも自我(主体)を中心にして世界が出来上がっているかのように言いました。 これはプラトンと同じ、本末転倒です。 つまり、個々の実在の多様性があって、それを後から自我(主体)が統一しているのであって、カントはその自我(主体)を先天的に、経験に先立って存在すると言いましたが、それは間違いだということ。 それはカントに続く、ヘーゲルでも同じでした。 個々の物の多様性を否定して概念である絶対精神に到達し、今度は、世界はその絶対精神によって、あたかも神が世界を創造したかのように、世界の多様性はその絶対精神の創造したもの、だから絶対精神が先で、世界の多様性は後から作られると言いましたが、これも本末転倒でした。 そしてフランス現代思想の哲学者はみんな、アンチ・カント、アンチ・ヘーゲルですから、多様性がもともとあり、自我(主体)は後から作られたもの、むしろ自我(主体)など存在しないと言いました。 ヒュームは自我(主体)がどのような発生基盤があって、どのように生じるのか、と問題にしたのに、カントはその発生基盤が何であるかを答えず、自我(主体)は先天的といって、それ以上、自我(主体)の発生地盤にまでさかのぼって答えることがありませんでした。 それに対し、フロイトはその自我(主体)の発生地盤にさかのぼって、人間の心的構造の「エス・自我・超自我」で、エスというリビドーの快楽原則を超自我が抑圧することで、自我が生じると言いました。 フロイトはそれを「快感原則の彼岸」という本で、「死の本能」と言っています。 エロスが、「生の本能」とすれば、タナトスが「死の本能」です。 ドゥルーズの哲学は「多様性の哲学」と言われますが、それは世界は最初から多様性であり、人間も個々によって違いがあり、「差異」があるというもの、そしてそれをカントやヘーゲルのように「同一性」で統一してはならないというものです。

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