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薩摩藩の今井道與の所領だった場所はどこですか?

関ヶ原の戦い後に落ちのびる島津義弘をかくまった礼に今井道與が授かった所領はどこでしょうか。

みんなの回答

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9604)
回答No.2

seastar3 さん、こんばんは。 今井道與自身薩摩で1000石の知行をいただいたほか、は薩摩藩の秘薬の伝授を受けていますから、屋号が田辺屋だったので、田辺製薬の始まりだそうです。問題は彼の次男坊です。でも、養子で薩摩藩でも名家の仁礼家の次男坊です。今井兼錬という名です。 これ以上はおそらく、薩摩藩でも名家に入るでしょうから、県レベルの図書館で、薩摩藩の分限帳を調べることをお勧めします。おそらく、菩提寺、屋敷などが分かると思います。 田辺製薬 http://www.shokoku-ji.jp/img/sanpai_img/s/rinkoin.html 今井兼錬 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E8%B2%9E%E5%89%87 今井道與 http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_7e27.html

seastar3
質問者

お礼

ithiさん、くわしくお調べいただきありがとうございます。 田辺製薬につながる商家なのですね。河内商人や近江商人や日本の産業史は奥が深いですね。 大きな図書館で、「薩州島津家分限帳」を閲覧すれば、今井鍛錬や今井能登之助の今井家の所領が出ていそうですね。なんとか当たってみます。

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3048)
回答No.1

関が原後となると、時代的に蔵米知行の可能性が高いかと思います。

seastar3
質問者

お礼

jkpawaproさん、ご回答ありがとうございます。 今井道與は一度、薩摩まで下ったようですから、所領は定まっていたと思われます。 おっしゃるように蔵米知行で、薬の製法だけ学びに行っただけの可能性もあります。 薩摩藩も大隅半島も薩摩半島も出水地方も島嶼部もあって、薬がらみにしろ貿易がらみにしろ商人の所領は何らかの意味があったのかも知れないと考えたのです。 特に薩摩藩は郷士の層が幅広いようなので、所領分けのしがらみも複雑だったことでしょう。

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